創業メンバーを集める
2000年4月、私は大和証券で社会人2年目を迎えました。
この時点で、既に私は起業家となること、そして、大和証券を退職することを決意していました。あとは、「いつ」という問題や「どうやって」という問題などが残っていました。
当時の私には創業資金が全くありませんでした。むしろ、大学や大学院時代の奨学金の返済があり、借金がある状態でした。とはいえ、「だから、起業できない」ではなくて、「どうやって起業するか」を考えるのみです。私にはそうする以外に道はありませんでした。
私がこの頃に一番考えていたことは、「何をやるか」「資金をどうするか」ということよりもむしろ、「誰とやるか」ということです。
2000年3月に発売された『ビットバレーの躍動』(仮名)という本のための取材活動で、ある起業家から重要なことを学んでいました。
「自分ですべてできる必要はない。できる人を仲間に加えればいいんだ」
この考え方は、それまでの私にはなかったといっても過言ではありません。
よくよく思い返してみると、それまでの私は個人プレーが主体の組織に属していたことが多かったと思います。たとえば、高校・大学でやっていたバドミントンはシングルスをメインにしていました。もちろん、ダブルスもありましたが、バレーボールのように役割分担ができるようなスポーツではなかったため、結局は自分自身が強くならなければ意味がありませんでした。
また、大和証券も大局的にみれば組織の連係プレーであったとしても、こと営業職に関して言えば厳しい競争にさらされた個人プレーの職種であり、「如何に自分でやるか、自分で身につけるか」ということが念頭にありました。
基本的に、「誰かに手伝ってもらい、共に何かを創り上げていくことで成果として認められること」は私の人生にはほとんどなく、誰かとの競争を常にしていたと思います。ですから、「何から何まで自分でやる必要があるんだ」という考えに支配されていたのです。
「できる人を仲間に加えればいい」というこの気付きは、私の人生の中でも特に大きなものでした。自分ひとりで何から何までやるとなると、相当なプレッシャーです。私は当時、起業後の「会計・経理」について心配していました。
「自分で経理の仕事はできるだろうか」
しかし、この気付きによって「経理ができる人を探せばいいんだ」と思いました。
「自分で経理をやる必要はない。重要なのは経理ができる人を惹きつけ、仲間にできるかどうかだ」
私には、私の代わりに経理をやってくれる仲間に心当たりがありました。
「高木さん(現在、ライブレボリューションの取締役。当時は米国公認会計士の資格を採りにいったアメリカから帰国したばかりでした)でも大丈夫だろうが、高木さんにはもっと別の才能があるので、経理をやらせるのはもったいない。だから、”彼”に任せよう!」
4月3日からアメリカのロサンゼルスに行く予定でしたので、その”彼”には帰国後に連絡を取ることにしました。
★ ★ ★ ★ ★
私は、高木さんと共に4月3日から4月5日の日程でアメリカへ行くことになっていました。その理由は、日本のインターネット界のキーマンの一人であるネットエイジの西川潔社長(以下、西川さん。現 ngi group 会長)とアメリカ・ロサンゼルスで会いたいと思っていたからです。
ちなみに、この旅には当時大和証券の先輩であった高橋さん(現在、ライブレボリューションの取締役)と筒井さん(仮名:後にライブレボリューションの取締役となる金子真歩と高橋将雄を私と引き合わせてくださった恩人)も一緒でした。
ちょうどこのとき(2000年4月3日〜4月5日)、ロサンゼルスでは、『Spring Internet World 2000』(以下、インターネットワールド)というイベントが行われる予定だったのです。そのインターネットワールドに西川さんが参加するということが、私も入っていたメーリングリストで流れました。そこには次のように書かれていました。
「ロスで一緒に食事できる方はこちらのレストランでお会いしましょう」
それを見た瞬間、「私も行くしかない。そして、このレストランで西川さんの隣の席に座る!」と決意したのです。
西川さんといえば、日本中を巻き込んだ「ビットバレー」の提唱者です。大和証券の営業マンであった私からすれば、雲の上の人でした。
そんな私が西川さんと知り合いになれるチャンスといえば、これくらいしかないと思いました。
西川さんとは、GMOインターネットの熊谷社長の講演会や、私が出版のお手伝いをした『ビットバレーの躍動』の取材でもお会いしていました。しかし、それは挨拶程度であったり、ライターのような立場であったりしました。ですから、個人的に親しくなるというところまでは至っていませんでした。
「アメリカまで追いかけていったという熱意は買ってくれるだろう」
私は、私にできるベストを尽くすつもりでした。そのツアーに高木さん、高橋さん、筒井さんを巻き込んだわけです。
4月3日の夜(現地時間)、私はロサンゼルスのレストランで西川さんの隣の席にちゃっかり座っていました。この食事会には「西川さんに会いたい」という方が40名以上も集まっていました。日本から遠く離れた土地で、40名以上の人を惹きつけていたというのは驚きです。だからといって、私が遠慮する理由などはあるはずもなく、父親譲りの「ちゃっかり屋さん」の力を発揮して、西川さんと仲良くなることが出来ました。それは、起業後に西川さん個人からの出資、西川さん率いるネットエイジ(現 ngi group)からの出資にもつながったのです。その努力は、やはり報われたのでした。
今度は私がその恩に報いる番ですが、まだまだ「報いる」というまでに至っていません。
インターネットワールドを見学し、西川さんとお食事をした翌日、私たち4名は、一路シアトルに向かいました。
★ ★ ★ ★ ★
はじめて訪れるシアトルは、透き通るような青空が広がり、街全体がクリーン。緑や海にも囲まれ、それはまるで宝石のような街という印象を受けました。4月のシアトルは「雨が多い」と聞いていたものの、私たちが滞在している間は常に快晴、目を閉じればそのときの美しい風景が脳裏に浮かびます。
私たちがシアトルを訪れた理由は、同行してくださった筒井さんの提案があったからです。
「大和証券で取引をしているリアルネットワークス(RealPlayerで有名)の本社(シアトル)と話をつけたぞ。シアトル本社のマーケティング担当者から米国のインターネットや同社の戦略について話を聞かせてくれるとのことだ」
これでは、シアトルに行かないわけにはいきません。こんなチャンスは滅多にないわけですから。
リアルネットワークス(以下、リアル)の本社ビルは世界的に有名な「パイク・プレース・マーケット」(以下、パイク・プレース市場:当時はまだ読んでいなかった『フィッシュ! 鮮度100%ぴちぴちオフィスのつくり方』[スティーブン・C. ランディン、ジョン クリステンセン、ハリー ポール:早川書房]という本が売れたこともあって、日本でも知られるようになっています。)のそばにありました。
実は、私はこのパイク・プレース市場のことなど全く知りませんでした。ですから、市場を通り抜けたとき、「やたら活気があって凄いな」という程度であまり気も留めていませんでした。まさか、そんな市場の中に、ビジネスで成功するためのヒントがたくさん詰まっているなんてことは思いもよりませんでした。
リアルの本社の前に来たとき、「やはりな」と思いました。というのは、あまり先進的でも、新しくもないビルだったからです。ある意味で古くて「地味」な建物でした。
「アメリカではあまりオフィスにお金をかけないベンチャーが多いときくけど、やはりリアルもワールドワイドな企業であるにもかかわらず、こんな感じで着実にやっているんだな」
そのような印象を受けました。私には、先進的なオフィスよりもこのようなオフィスのほうがベンチャーぽくって、アメリカ人には好まれるのかもしれないと感じました。
中に入ると、大きな食堂が目に付きました。そこには当たり前のようにビリヤード台が置かれていて、社員たちが遊んでいます。
「まさにアメリカって感じだ。いつか自分もこんなオフィスを作りたい」
食堂を通り抜けると、私たちはPuget Soundの海岸に面したプレゼンテーションルームに通されました。その窓の外に広がる景色は、キラキラと光る青い海と澄み切った青空により、とても穏やかな印象でした。
その窓と海の間には「Pacific Rail Way」のものと思われる線路が走っています。この路線はどうやら貨物専用に使用されていて、私が外を眺めているとカナダからの物資を積んでいるであろう貨物列車がゆっくり近づいてきました。
「うわー、長閑(のどか)だなぁ」
英語のプレゼンテーションはほとんど頭に入っていませんでしたので、私はその貨物列車をじっと眺めていました。
「おおお、いいねぇ」
窓の外を眺めて1分が経ちました。
「ほんと長閑だ」
2分が経ちました。
「なげー」
3分が経ちました。
「うそでしょ」
4分が経ちました。
「止まっているわけじゃないし」
5分が経ちました。
「おいおいおい」
10分が経ちました。
「もうダメだ。あきらめよう・・・」
それは、日本の常識では考えられないような長さの貨物列車だったのです。無限ともいえるその長さに、いつ通り過ぎるのかを考えることすらできなくなりました(笑)。
もう一つ、同社のオフィスで驚いたことがあります。それは、スターバックスがポットでコーヒーを届けに来たことです。今では、そのサービスが知られているとはいえ、当時の私には考えられないサービスでした。
「あのスターバックスが、わざわざ会議室までコーヒーを届けに来るのか・・・」
シアトルといえば、スターバックス発祥の地にして、本社のあるところです。リアルのオフィスに来る途中で、スターバックスの巨大なロゴマークを掲げた本社ビルを見ました。そして、あたかも日本のコンビニかと思うくらいに、どこにでもスターバックスがありました。まるで「2ブロックごとにあるのではないか」というくらいにです。
「うわー、ビルの1Fはスターバックスばっかりだ。石を投げればシルビアにあたる・・・じゃなくてスタバにあたりそう」
これでは、そのビル専属のコーヒーショップといっても過言ではありません。
3時間にも及ぶリアルのプレゼンテーションを終え、私たちは一路ホテルに向かいました。リアルの本社からさほど遠くはなかったので、歩いて目的地に向かいました。
一夜明けて、日本に向かう日の早朝、私はまだ霧に包まれているシアトルの街に一人出てゆきました。
その外出の目的は、スターバックスのラテを飲むことでした。せっかくシアトルに来たのです。スターバックスのラテを飲まなければ後悔してしまいそうでした。
大和証券渋谷支店のそばにある「QFRONT(キューフロント)」というビルの1&2Fにはスターバックスが入っていました。私は、必ずスターバックスに寄ってから出社していました。
まだ人もまばらな渋谷の早朝(7時前後)にコーヒーを買って出社するというのは、不思議な優越感のようなものがありました。特にスターバックスのロゴ入りのカップを手にしているとcoolな感じがしてうれしくなったことを思い出します。
「これぞデキる金融マンのあるべき姿だ」
本場シアトルから帰ってきた直後は、「自分だけは本物のスターバックス・ラテを知っている」といわんばかりに一人で優越感に浸っていました(笑)。
★ ★ ★ ★ ★
日本に帰ってきた翌日、渋谷支店に出社した私は、内線で本社の金子さん(現在、ライブレボリューションの取締役。当時は大和証券本社で、ITを活用した商品戦略企画を担当。データマイニングによるマーケティング分析、オンライントレードの機能企画、商品本部の集計システム開発、全支店へのSFAシステム導入企画等を手がける)に電話しました。
「もしもし、金子さんですか。増永です」
金子さんといえば、既に大和証券の戦略企画にまで携わるいわばエリートです。しかし、私はその頭脳、才能が新しい会社には絶対に必要だと思っていました。駄目もとでもいい・・・私は電話をかけ、そして前置きもなく、本題に入りました。
「金子さん、私は起業することにしました。そこで、金子さんにも一緒にと思って電話しました」
すると、金子さんは間髪いれずに「いいよ」とこたえたのです。これには、電話した私のほうが驚きました。
「僕は、起業しようと思ってお金も貯めていたんだよ。でも、自分は社長向きじゃないので、君のような人に出会うのを待っていたんだ」
なんと、金子さんは既に500万円も貯めていたのです。
「僕は明日からSAS社での研修のために君と入れ替わりでアメリカに行って来るから、帰ってきてからまた話をしよう」
そういって、電話を切りました。
「金子さんは、創業する新会社のビジネスモデルも聞かずにOKしてくれた・・・」
私への絶対の信頼に、自分も応えていきたいと思いました。
この時点で、創業メンバーが私を含めて3名になりました。私、金子さん、高木さんの3名です。
本当はここにアメリカにも同行してくださった高橋さんも加わってくれると有り難いと思っていたのですが、実際には一年後の合流となります。
「創業するなら、あと二人加えたい人物がいる」
そのうちの一人が、「帰国後、絶対に打診しなければならない」と思っていた”彼”でした。
「飯野さん、久しぶり。元気?」
飯野さんは、私が横浜国立大学の1年生のときから一緒に遊んでいたクラスメートでした。彼は公認会計士になることを目指して猛勉強していたのですが、悪い友達(もちろん、私たち)に阻まれて、結局スクール代をどぶに捨てていました。
「飯野さん、名古屋よりも東京のほうが刺激的で楽しいよ。だから一緒に東京で起業しようよ」
当時の飯野さんは、あるゼネコンの道路事業を担当している子会社の経理をやっていました。
「そんな潰れそうな会社の子会社だったら、未来はないぞ。そもそも飯野さんの会社の寮って、確か4畳くらいじゃない?なんで190センチ近い飯野さんがそんなところに住まされているわけ?いいことなんか一つもないじゃん」
飯野さんは、私と一緒に無茶な遊び方をしていた仲でしたので、「テキトウ」な理由をつけて、辞めたい気分にさせようとしました。ちなみに、飯野さんは「挑戦されると断れない」という性格だったのです。
ですから、「この寒さ(真冬)の中で、バイクでここ(横浜)から八王子まで上半身裸で吉牛(吉野家の牛丼)を食べてこれるか?」というと「できるに決まっているだろう!」といって飛び出していく有様でした。凍えながらレシートを持って帰ってきたときには本当に馬鹿な奴だと思ったものです(笑)。
「飯野さん、そんな将来性のない会社よりも、自分たちでやろうよ。そのほうが楽しいって」
こうして、飯野さんは勤めていた名古屋の仕事を辞めることになりました。私の「経理はできないから、できる人に任せたい」という望みが叶いました。
「あと一人いる」
私は、岡山の景山さん(以下、カゲさん)に電話をかけました。
「カゲさん、ご無沙汰です」
横浜国立大学で同期だったカゲさんについては、私が同大学を卒業しても、そして、早稲田大学の大学院を卒業しても、「カゲさんが就職した」といった話は聞こえてきませんでした。
「あ、師匠(私は彼のマージャンの師匠だった)。ご無沙汰しています」
「カゲさん、今何してるの?」
「岡山大学に通ってます」
「え!」
びっくりしました。なんとあまりにも大学に通わなかったため、退学したとのことでした。そして、仕方なく実家の岡山に戻り、地元の岡山大学の法学部に入学したとのことでした。
「凄いね、もう受験勉強なんてしたくないよ」
別の意味で私は感心していました。
「実は起業することにしたんだ。そこで、カゲさんにも加わって欲しいので岡山大学を今すぐ退学してください」
「師匠、マジですか?まだ一年生やねんけど」
「どうせ、日本の大学なんて意味ないって。それより、カゲさんには拒否権がないでしょ」
「師匠、すんませんでした。では、大学辞めますわ・・・」
カゲさんは、大学にこそ「通わなかった」ものの、その頭のよさはピカイチであることを私が誰よりも知っていました。彼もまた、ある意味で「天才」の部類に入る人物だったのです。
飯野さんとカゲさんについては、超・強引に人生革命をさせてしまいました(笑)。
よって私は、自分にはない才能を備えた仲間を起業前から4人も集めることが出来たのです。
「チームではじめる」
これが私の最初のこだわりでした。一人で始めるのではなく、経営チームを創ってからはじめることにしていたのです。
「一人では限界がある。だから、さまざまな才能をもった人を集めてはじめるほうがいい。しかも、信頼できる人がいい。うまくいってからなら誰でも参加するだろう。それでは意味がない。一緒にゼロからスタートを切ってくれるような人が仲間じゃないとダメだ」
お陰で、私は創業時から今まで、非常に優秀な経営チームに恵まれたのです。しかも、飛び切り信頼できる仲間でした。当時の「こだわり」は正解だったことが既に証明されています。
「よーし、これで創業メンバーは決まった。次は資金とビジネスプランだな」
「誰とやるか」という私の最大の関心事をクリアしたことで、起業とその成功への現実味がぐっと増したと感じました。
おそらく、起業して多くの人がつまずくのは、この「誰とやるか」ということでしょう。「起業したことのある人」ならば、その「創業メンバー」の重要性はわかるものです。
●毎週金曜日に連載する増永寛之著『起業家物語』のバックナンバーはこちら
|