初めてのお客様
「お客様は本当に出来るのだろうか」
大和証券に入社し、研修を受け、資格試験に合格し、多少なりとも商品の知識が身についているとはいっても、こんな素人同然の私でお客様と取引を行うことが出来るのだろうか・・・。私はそんな疑心暗鬼の状態でテレアポを行っていました。
「でしたら、明日の午後はいかがかしら」
何百本も営業電話を掛けた末に、ようやく一件のアポイントメントを取ることができました。
「佐野さん※が同行してくれるのならば安心だ」
※(私の教育を担当するチューターで、当時のスーパー営業マン。現在、某支店の支店長を経て、大和証券本部の企画セクションに勤務)
私は、はじめての外交営業ということで、支店を出る前にカバンの中身を入念に確認しました。
「名刺、新規口座開設書、商品パンフレット、朱肉、地図・・・」
デスクの上に置いてあった大きな黒いシステム手帳が目に入りました。
「手帳はいっか・・・」
当時の私は、手帳を持ち歩くことやお客様等の前でメモを取ることを毛嫌いしていました。それは後に間違いであることに気づくことになります。
★ ★ ★ ★ ★
小田急線の代々木上原駅に着いたのが約束の時間の20分前。夏だということもあり、ガンガンに日が照りつけていました。
駅を少し離れると、そこにはいわゆる閑静な住宅街が広がり、和風の建物というよりは西洋風の建物が目に付きました。ガレージに止まっているクルマは、やはりベンツやポルシェといった高級車ばかりでした。
「佐野さん、ここはお金持ちがたくさん住んでいるようですね。こういうところで飛び込み営業やビラ撒き営業をやったら効果があるんじゃないでしょうか?」
それを聞いた佐野さんは苦笑いをしただけでした。きっとあまり効果は無いのでしょう。
私たちは、白くて大きな雲を浮かべた青空を見上げながら、緩やかな坂を上り続けました。
「ここですよ、ここ!」
私は手にしていた地図で目の前にたっている建物が目的地であることを確かめました。それはとても立派なお屋敷でした。
「こんな家に住んでいるのならお金持ちに違いありません!佐野さん、私がチャイムを押しても構いませんよね?」
当たり前だといわんばかりに佐野さんの表情が緩みました。私は逆に表情を引き締めてインターフォンのチャイムボタンを押しました。
「ピンポーン、ピンポーン」
私は固唾を飲んでインターフォンのスピーカーから声がするのを待っていました。
「どちら様でしょうか?」
「大和証券の増永です」
女性の問いかけに、私はアポがあって訪れたことを伝えました。
「しばらくお待ちください」
門の向こうには小さな庭があり、その先には右斜め上に向かって階段が続いていました。
「どんな人が降りてくるのだろう?」
しばらくすると女性が階段を降りてきました。
「奥様がお待ちして降りました。お入りくださいませ」
どうも目の前に立っている女性はお手伝いさんのようです。
「お手伝いさんがいる家になんて初めてだ・・・」
内心驚きながら、お手伝いさんの後に続いて階段を上り、門からは見えない位置にあったドアからお屋敷の中に入りました。
そのお屋敷の外観の特徴は、壁が白く、緑の蔦(ツタ)で適度に装飾されていたことです。また、内装も白が基調で外側の壁と同じく内側の壁も白色でした。そして、廊下の壁には巨大な油絵が飾られていました。あれほど暑かった外に比べると、中は別世界のようにヒンヤリとしていて、住んでいる世界の違いを感じずにはいられませんでした。
「凄いなぁ、こんな家に入るのは初めてだ!」
「お金持ちはやっぱり違う!」
それらを口に出して言うわけにはいきませんので、ひとり心の中で口走っていました。
私たちは奥の部屋に通されました。その部屋の大きさには不釣合いともいえる小さな窓がありました。その窓から見えるのは緑の木々だけで、それらが直射日光をさえぎってくれていました。
落ち着きを装いながらソファーに浅く腰掛けて待っていると、すぐに別のお手伝いさんがやってきました。そして、高価であろう素敵なティーカップを運んできて、それに香り豊かな紅茶を注いでくれました。
「お待ちしておりましたわ」
「奥様」と呼ばれていたこともあり、相当なご年配の方をイメージしていましたが、思ったよりも若い女性が現れました。おそらく40歳前後でしょう。私たちは彼女が入ってきたと同時に立ち上がり、背広の内ポケットから名刺入れを取り出しました。
「昨日お電話した大和証券の増永です。この度は誠にありがとうございます」
佐野さんが名刺を渡した後に、私も名刺を差し出して挨拶しました。ちなみに、名刺交換を行う場合は、上司から行うのがマナーです。当時の私はそのようなことなど全く知りませんでした。私が佐野さんの後に名刺交換を行ったのは、ただの偶然でした。名刺交換のマナーを知らなかったが故に、佐野さんのやり方を見てから真似しようと思ったに過ぎませんでした。
「新規公開株についてお知りになりたいということでしたよね」
佐野さんが話を切り出しました。ここに来る途中、私は佐野さんから「会話の途中で口を挟まないように」といわれていました。私が話をしてもお客様にとってあまりメリットが無いからです。
「もし新規公開株が買えるのでしたら、今すぐにでも大和証券で口座を開設いたしますわ」
私は佐野さんと彼女とのやり取りを観察しながらドキドキしていました。
「この方は新規口座を開設してくれるのだろうか?それにしても、『新規公開株』ってなんだろうか?」
商品知識が無いために、佐野さんが何を説明しているのか、全然わかりませんでした。
「奥様のご意向は承りました。そのためには、まず口座を開設していただかなければなんともいえません。もし口座を開設していただければ、新規公開株を取ることができる”かも”しれません。」
私は佐野さんの「かもしれません」という断定を避けた表現にピクリと反応しながら、会話の内容を頭に叩き込んでいました。
「さすが証券マン。断定表現を避けている・・・」
証券営業マンが心得ていなければならないことの一つに「断定表現を避ける」というものがあります。
「この株は絶対に上がります!」と言ってはならないのです。どうしても、自信のある株については売り込みたくなるものです。相手が不安にならないよう、わざと断定表現を用いて買ってもらおうとしたくなります。
ところが、こういった断定表現はご法度なのです。株は絶対に上がるとも、絶対に下がるともわからない商品です。もし、そのような商品を断定表現を用いて売ってしまうと大変なトラブルに発展してしまいます。
「この株は『絶対に』上がる”かも”しれません」
証券マンになると、「かもしれません」という締めくくり方が癖になってしまうほど多用します。ちなみに、私の場合はもともと「絶対に」をつけるのが癖になっていましたので、かなり際どい営業トークになっていたと思いますね(笑)。これから営業職に就こうとしている方には何を売る場合であったとしても、想定されるリスクをお客様に事前に説明し、なるべく断定表現を避けることをオススメします。
「かしこまりました。それでは、口座を開設しましょう」
佐野さんの営業トークが効いたのでしょう。彼女のその言葉を聴いて私はガッツポーズをしたくなりました。
「はい、増永君。はやく新規口座開設書を出して」
佐野さんに促されて、新規口座開設書と朱肉をカバンの中から取り出しました。
彼女は隣の部屋に控えていたお手伝いさんを呼ぶと、印鑑を持ってくるように伝えました。
「ついにお客様が出来る・・・」
私は物音を立てないようにして待っていました。もし、私がここで何かをしでかして、目の前のお客様の気が変わってしまったら・・・そんなことを恐れていました。
お手伝いさんが戻ってくるまでの間、彼女には私が持参した新規口座開設書に必要事項を記入してもらいました。意外と書かなければならない項目が多いため、面倒な作業だといえます。それらの項目の中には「個人資産」の項目もあり、どれくらいのお金持ちなのかがわかってしまいます。
「見てはいけないと思いつつ・・・でも、気になる・・・」
個人資産の項目は一ページ目にあったため、どうしても目に入ってしまいます。もちろん、見てはならないという決まりはありませんし、見ても差し支えのないものです。とはいえ、他人の資産を知る事には多少の抵抗を感じました。
「やっぱり億単位か・・・」
本人の書いた金額が本当かどうかは別にして、目に飛び込んできた数字からはポテンシャルのあるお客様であることは間違いないと思いました。
「では、最後にご捺印をお願いいたします」
佐野さんが最後のクロージングに入りました。これで印鑑を押してもらえれば、晴れて私の顧客名簿の一番目に記されることになります。
彼女はお手伝いさんから手渡された印鑑ケースから見たことも無いような立派な印鑑を取り出しました。
「こちらが朱肉でございます」
私は震え気味の手で朱肉をテーブルの表面を滑らせ、彼女の目の前に差し出しました。
彼女が朱肉に印鑑を押し付けました。
「ほ、本当に押してもよいのですね?(心の声)」
彼女が朱肉に印鑑をぐりぐりとこすり付けました。
「も、もしかしたら損をするかもしれませんよ(心の声)」
彼女が朱肉から印鑑を離しました。
「い、今まで悪い証券マンに騙されたことはありませんか?(心の声)」
彼女が左手で新規口座開設書を押さえつけ、右手に持った印鑑は捺印箇所に狙いを定めていました。
「ぼ、僕はまだ何にも知らない新人なんですよ(心の声)」
彼女が手にした印鑑が、今まさに捺印される瞬間です。
「な、なんちゃって〜なんて言わないでくださいよ!!!(心の声)」
彼女が印鑑を押し終わったとき、ちょっぴり罪悪感のようなものを感じてしまいました。
「どうして罪悪感のようなものを感じるのだろう」
当時の私にはそれがなぜなのかよくわかりませんでした。しかし、今になって考えてみると、それはきっと「お客様のために」という考えではなくて「自分の成績のために」という感覚で見ていたからだと思います。
目の前に座っている女性が私からどのようなメリットやサービスを受けられるのか、そういったことを自分の中で明確に持たないままに、ただ印鑑を押してもらっていました。そこには彼女に貢献したいという感情はほとんどありませんでした。あったものといえば、ただ自分の成績につながるのかどうかということだけでした。
営業を始めた頃の私は、お客様に貢献することが目的ではなく、お客様を作り、成績をあげるということが目的となっていました。
「ひょっとしたら私は、自分の成績を上げるために目の前にいる人を利用し、そして餌食にしようとしているのではないか」
そのような感覚に陥っていたことで、あまり心地がよくなかったのでしょう。当時の私は、この一人目のお客様を獲得するために何か特別な努力をしたわけではありません。お客様のために何か行動に移していたわけでもありません。ただテレアポを行い、来て欲しいといってくれた見込み客のもとを訪れたに過ぎなかったのです。
記念すべき一人目のお客様に口座を開設してもらったその日の私というのは、それまで自分のお客様を持ったことがなく、自分のお客様のために尽くしたこともなく、自分のお客様から喜ばれることで得られる幸福感というものを知りませんでした。自分の成績以外のことにはまだ意識が向かないレベルの状態にありました。
本来、営業マンであれば、お客様のために働くこと自体が喜びであり、また目的でもあり、お客様から頂く報酬や社内における成績というのは、その「結果」でしかないということがわかっていなければなりませんでした。世の中には、それを就職する前から自然に身につけているという人もいます。しかし、残念ながら当時の未熟な私には、そういった感覚など全くありませんでした。
「これで一件!」
当時の私にとって、そのはじめてのお客様というのは、積上げるべき数字の一部でしかなかったといえるでしょう。
★ ★ ★ ★ ★
「佐野さん、ありがとうございます!おかげではじめてお客様が出来ました!」
帰る頃には太陽が西の空に差し掛かっていて、来たときほどの暑さはありませんでした。緩やかな坂を二人で下りながら、この日の訪問を振り返りました。
「増永君、どうして君は面談中に手帳を取り出してメモを取らなかったのかね?」
佐野さんから意外な話題を振られた私は、昔から抱いていた持論を披露しました。
「私は人前でメモを取らない事にしているんです」
怪訝な顔をした佐野さんがその理由を尋ねてきました。
「なぜならば、私は人の言ったことを全部記憶できるからです。特別大事なことであれば、絶対に忘れるようなことはありませんから。あと、人前でメモを取っていたら『メモらないと覚えられないのか』と馬鹿にされるかもしれないじゃないですか」
私は自信満々で答えていました。頭の良さをアピールしているつもりでした。
「君って奴は全く・・・」
今までに無いほど、あきれたという感じの声でそう言われてしまいました。
「君は何もわかっちゃいないね。メモを取ることも大事だけど、メモを取るフリをすることも大事なんだよ」
「え?メモを取るフリが大事なんですか?」
予想外の佐野さんの発言に戸惑いました。
「まず、お客様は話を聞いてくれているかどうかが気になるものなんだよ。だから、面談中は必ず相槌を打たなければいけない。これは基本中の基本なんだけど、出来ていない人が多いね。次に、メモを取ることはとっても重要なことなんだよ。大切なことを書き留めておかないと忘れてしまったら信用を失うからね。ま、君が本当に覚えられるのならばそれでいいと思うけれども、少なくともメモを取るフリをするべきだと思うんだ」
佐野さんは、ちらっと時計を見てから、また話を続けました。
「僕たちは高額な金融商品を扱っているんだ。それは100万円、1000万円の世界じゃない。1億円、10億円の世界なんだよ。もしお客様とそういった金額の資産を運用するための面談をしていたとしよう。君がメモを取っていなかったらどうだろうか?きっと相手は不安になるんじゃないのかな?君は暗記できるから大丈夫だと思っているかもしれないけど、お客様は心の中で『こいつ大丈夫かな』と不安に思っているかもしれない。不安になったら買ってくれるかな。相手の立場に立って考えてみたら、僕はメモを取るフリだけでもするべきだと思うんだよ。お客様を不安にさせているようじゃ一流のビジネスパーソンだとはいえないと思うけどね」
私はガツンと脳天を殴られたような衝撃を受けました。メモを取るという行為は、自分が会話の内容を記録するため、相手との約束を書き留めておくためにあるのだと思っていました。そして、後々に何らかの証拠としたり、約束を履行したりするのに利用するものだと思っていました。いわば、事後的に使うものだと。
ところが、佐野さんの話を自分なりに咀嚼してみると、メモを取る行為というのは、その瞬間に相手に何らかのイメージ、信頼感、安心感等を与えたりすることができる技術であることに気づきました。
「お客様は怖がりなんだからさ。少しでも安心させてあげないと。そうじゃないと何も買ってくれないよ」
ごもっともだと思いました。
「ついでだけど、お客様との面談の際や講演会での講師の話を聴く際にもメモを取ることやメモを取るフリをすることはとっても有効だよ。彼らが大事だと思って力を込めて語っているときにはメモを取るフリだけでもすればいい。語り手はきっと『よしよし、そこでメモるとはよくわかっているじゃないか』と気分がよくなる。気分がよくなると調子に乗って何でも話をしてくれるようになる。特にお客様の気分をよくさせることは大事だよね。お客様のことがわかればわかるほどサービスを提供しやすくなるし、ひょっとすると気分がよくなっただけで商品を買ってくれるかもしれない(笑)」
もし、自分が誰かに話をしていて、相手が何もメモらなかったとしたらどうでしょうか。自分は大事なことを話しているつもりでも、相手には全く響いていないのではないかと不安になるのではないでしょうか?あるいは、退屈しているのではないかという不安を抱くことにつながるかもしれません。
お客様であれ講師であれ、どうせ話をするならば気持ちよく話をしたいと思っています。そんな話し手の立場に立てば、メモを取るフリをするだけでも気遣いができているといえるのではないでしょうか。
「佐野さん、ありがとうございます。勉強になりました・・・。これからは必ずメモを取るようにいたします」
私がそう言った頃には代々木上原の駅に到着していました。
「よし、じゃ今夜は何人か渋谷支店の営業マンたちも誘って、初めてのお客様が出来たことをお祝いしよう!」
ようやくお客様が出来たことのうれしさが湧き上がって来ました。
おそらく、営業職を体験したことのある人の多くが、初めてのお客様が出来たときのことを覚えているのではないでしょうか?顔も名前も思い出せなくとも、そのときのうれしさというものは印象に残っているはずです。
この日、私の「お客様は本当に出来るのだろうか」という不安は完全に払拭されました。そして、「あきらめずに営業を続ければ、必ずお客様はできる」という強い信念に結びつきました。100本電話をかけて1件の確率でお客様が出来るのであれば、200本の電話を掛ければ2件のお客様が出来るということです。その確率は地域、業種、商品、経済環境等さまざまなものに左右されるとしても、あきらめずに続けていけば必ずお客様が出来るはずです。このことは営業職としてキャリアを積んでいこうとしていた私にとって、未来に対する安心感を与えました。
とはいえ、この考え方は、全く別の考え方に変化していくことになります。100件電話を掛けて1件ならば、200件300件と電話を掛ければいいという単純な考えでは効率がよくないことがわかったからです。つまり、もっと効率のよいやり方があることがわかったのです。それについては今後の起業家物語で書いていきたいと思います。
「佐野さんからこんな話が聞けたのは、初めてお客様になってくれたあの奥様のおかげだ。めいっぱい感謝しなきゃ。そして、この恩を返すためにもお客様に尽くさないといけない」
そのような感情が胸の奥底から込み上げてきたのとは別に、私はこのとき、あるもう一つの考えが頭の中にありました。それは、これからの自分の営業方針についてです。
「今夜の飲み会の席で佐野さんに伝えよう」
浮かれた心をぐっと引き締め、佐野さんの背中をまっすぐに見つめたまま、私は駅の改札を通り抜けました。
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