伝説を創れ!
私の修士論文のテーマは「ブランドエクイティー」でした。
「ブランドは企業にとって資産(エクイティー)である」
企業がブランドを持つことの意義や価値といったことを明らかにし、ブランド形成戦略、ブランド活用戦略を論じようと試みました。そして、修士論文中には盛り込みませんでしたが、その内容を引き継いで「ブランドの資産計上」に関する論文を書き上げました。これは税理士試験の会計科目免除してもらえるもので、私は大和証券に入社後、この論文を国税庁に提出し、実際に税理士試験の会計科目を免除されました。もし、あのまま税理士になることを目指していれば、資格を取ることが出来たかもしれません。しかし、最終的には「社長」という職業を選ぶことになります。
修士論文を書き上げ、大隈講堂で行われた早稲田大学大学院の卒業式を終えた私は、社会人になる準備に入りました。
大和証券に内定していた私は、東京都清瀬市にある「大和証券清瀬寮」に入ることになっていました。ちなみに「清瀬市」は都心から見て北西に位置し、埼玉県の所沢市と隣接しています。入社式の前に引越しを済ませるよう言われていましたので、私は早めに寮に移ることにしました。
奈良から上京してきて私が最初に住んだのが横浜。私は、「奈良」と言っても市内のど真ん中に住んでいましたので、それまで「田舎に住んだ」という感覚はありませんでした。正直に言って、横浜で住むことになった「和田町」のほうが田舎でした。
ところが、この清瀬は更に田舎でした。駅から寮までは歩いて15分から20分ほどかかります。その間には畑などがあり、背の高いビルなどは一切ありませんでした。
当時の同期は主に「清瀬寮」「所沢寮」、そして清瀬市の隣の東久留米市(東京都)にある「東久留米寮」を割り当てられていました。
清瀬寮に引っ越したことで「畳部屋」「共同トイレ」「共同風呂」「食堂」「バス通勤」などさまざまな面で「はじめて」を体験することになりました。ある意味、学生のときよりも質素で華がない環境でした。とはいえ「囲い塀に有刺鉄線がある東久留米寮よりはマシだ」と言われていたことと、その後私生活についてあれこれ考える暇などないくらい忙しい社会人生活を送ることになるため、あまり寮環境の面を気にすることはありませんでした。
あわただしく引越しを完了させた後、私は奈良に帰省しました。毎年3月20日前後には奈良高校のバドミントン部でOB会が開かれています。私は大学・大学院時代には一度も参加していませんでしたが、よい機会だと思って参加することにしました。
「増永君、久しぶり」
奈良高校のバドミントン部で同期だった女の子と再会しました。彼女は既に小学校の教師をしていました。話を聞くと、仕事は結構大変らしく、教師はラクな仕事ではないといいます。
「増永君は、どこに就職することにしたの?」
「大和証券だよ」
「証券会社!大変ねぇ。潰れるかもしれないし」
当時、大和証券に内定したことを誰に言ってもこのような反応しかありませんでした。
「せめて1人でも『おめでとう』と言ってくれればうれしいのにな」
ただでさえ「仕事がハード」というイメージがある上に、山一證券の倒産など業界そのもののイメージが悪かったわけで、それも仕方のないことです。自分で決めたことですから、そのことに一喜一憂することはやめることにしました。
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1999年4月1日、私は大和証券に入社します。
その日はよく晴れていて、東京駅の北口そばにある大和証券本社ビルに向かう私の心は躍っていました。
「ついに社会人生活が始まる!」
今から思い返せば、あまりにも幼く未熟な人間でした。勉強することや競争することには長けていても、人格面や経験面で不足しているところが多々ありました。この頃はまだ「自分は優秀だ」という意識のほうが強すぎて、自分の弱みを把握することは出来ていませんでした。その点は大和証券での様々な体験と起業後の数多くの困難を通じて磨かれていくことになります。
「それにしても本社ビルはオンボロだなぁ」
これは、その後も大和証券の同期と話をする際には何度も私の口から出た台詞です。
地上9階建ての本社ビルは立地こそ最高なものの、周りの高層ビルと比べてあまりにも見劣りします。壁の色も薄汚れていましたし・・・。中のエレベーターも執務スペースも昔ながらの薄暗い感じでした。
会社のブランディングを考えれば、ビルは立派なことに越したことはありません。お客様だけでなく入社を希望する人にもビルのグレードは少なからず影響があると思います。
「この大和証券本社ビルを建てたときに鵄(とび)が屋上に舞い降りたから社章が鵄(とび)の形になったと誰かがいってたっけ・・・」
本社ビルから受けるイメージは、東京のど真ん中に聳え立つというよりもこじんまりしていて控えめなものでした。
「そのうち、僕が社長になって本社ビルを建て替えよう」
まだ何も知らない人間だっただけに、ビルのボロさだけを見て勝手なことばかり言っていました。ちなみに、大和証券の本社ビルは2007年11月に「グラントウキョウ ノースタワー(建設中)」(東京都千代田区)に移転する予定だそうです。これは退職した私にとっても我がことのようにうれしく思います。確かに、歴史のあるボロい本社ビルも大事かもしれませんが、古いものにこだわり続けていては新しいことなどできません。本社移転は変化を実感できる最たるものの一つですから、社内に新しい活力がみなぎることでしょう。
私は、入社式のために訪れた大和証券本社ビルを見て、そのボロさを嘆いていたことを今では反省しています。起業し、自分で会社を経営して初めて「大和証券は偉大だった」と身に染みて実感しました。
「あんな東京駅のまん前に自社ビルを構えているなんて、とんでもなく凄いことだ。大和証券の先輩達は努力したんだな」
私だけでなく、新入社員というものは「入社時から存在するもの」に対してなかなか有り難味や感謝の念を持つことが出来ません。どうしても「当たり前」と思ってしまう節があります。しかし、本当は、先輩達の大変な苦労があったからこそ、築かれているものなのです。ところが、そんなこととは露とも気づかない、苦労もしたこともない私のような学生は、足りないところや駄目なところだけを見て、生意気なことを口にするのです。
「あんな教育制度がない」「こんな福利厚生施設がない」・・・。
大企業といえば「何でも揃っている」と思っている学生が多いようですが、すべては先輩達の努力の結晶であり、至らない点もあって当たり前です。制度によってはその会社の発展の歴史のなかで必要なかったものもあるでしょう。であれば、そのような制度などあるはずがありません。私は「ないもの」だけを見て不満を述べていたに過ぎませんでした。
自らベンチャー企業を興してみて、自分の会社にはあまりにも何もないことに唖然としました。そして、大和証券が用意してくれていたものの凄さに圧倒されました。実際に自分の力で大和証券が築いたものを今すぐ用意できるかといったら到底無理な話です。
「ボロい本社ビルどころが、田舎のようなところにある清瀬寮すら私の会社では用意できないじゃないか」
私が作った会社(ライブレボっユーション)に後から入ってきて、「こんなのもないのですか」という心無い人の言葉を耳にするたびに「あのな・・・君はまだ何もしていないのに、至らない点や福利厚生の不満ばかりいうのか・・・君が仕事をしてそれを作り出さなきゃいけないんだぞ」と思ったものです。
今となっては古めかしくてボロく見える大和証券本社ビルでも、当時はきっと先進的で社員全員が誇りに思っていたに違いありません。その喜びや想いを踏みにじるようなことを考えてしまい、大和証券の先輩達に申し訳ない気持ちでいっぱいです。心からお詫びしなければなりません。そして、改めて本社ビルだけでなく大和証券という企業そのものを築き上げてくださったことに感謝したいと思います。
「果たして、ライブレボリューションに入社してくる未来の若者たちは先輩達の想いを汲んでくれるだろうか」
普段何気なく使っている「ありがとう」という言葉は「有り難い」から派生したものだそうです。「有ること(存在すること)自体が本当は難しい」ということを、自分で会社を創ってみて痛感します。自社ビルを持つことというのは当たり前のことではなく「有り難い」ことなのです。更に言えば、大和証券も私のライブレボリューションも、その存在自体が「有り難い」ことであって、入社を希望する人にとっては感謝に値するものではないでしょうか。
私はそれが理解できる人だけを採用し、仲良く楽しく仕事をしたいと思っています。
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本社ビルの大会議室で行われた入社式には、同期となる一般職の女性たちもいました。総合職と一般職が顔を合わせたのはこれが初めてでした。
「あれが、原社長か」
大和証券の社長を見たのもこれが初めてでした。
「え?もう終わり?」
さっと入ってきたかと思うと短いスピーチをしただけで部屋から出て行きました。
結局、私が大和証券の社長の実物を見たのはこれが最初で最後でした。大企業というものはそんなものなのでしょうが、こんなに短い時間で新しい仲間と会社のトップが心を通じ合わせることが出来るのでしょうか。それとも、そもそも心を通じ合わせる必要がないのでしょうか。後に私が会社を興して社長となり、日々仲間と接する中で、その点について深く考えなければならない日がやってくることになります。
短い入社式を終え、一般職はその場に残り、総合職である私たちは本社ビルの前に横付けされていた2台のバスに乗り込みました。
「これから『2営※』は池袋分室で研修となります」
※2営とは『第二営業部』の略称:当時の新人はその部署に配属されることになっていました。簡単に言えば新人が研修中に配属される部署です
2台のバスは首都高速に乗り、野村證券の本社ビルの左脇を通って池袋方面へ。代によって変わるようですが、私たちは池袋支店の空きフロアを使って約4ヶ月の新人研修を受けることになります。この期間は研修をしただけで、実践的なことは何もしませんでした。大和証券では池袋支店の研修用の空きフロアのことを「池袋分室」と呼んでいました。
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入社初日は、右も左もわからないまま、とにかく物凄い早さで過ぎていきました。配布物や手続等も半端なくたくさんありました。
夕方、はじめての日報を書いて、ようやく落ち着いたとき「お世話になった方々に御礼を言わなくちゃ」と思い立ちました。そして、リクルーターだった入枝さんと小林さんに内線電話をかけることにしました。
「え、小林さんは大阪支店にいるのですか?」
入枝さんの苗字は珍しいため、すぐに所属部署を探すことが出来ました。ところが、小林さんは、同じ苗字が多過ぎたため自分で探し出すことは困難でした。そこで、入枝さんに内線電話をかけた際に、小林さんの現在の所属部署を教えてもらったのです。
「アメリカから帰ってきたかと思ったら、大阪ですか・・・」
入枝さんに御礼をいって、大阪支店に内線電話をかけました。
「おおお、増永。元気だったか!」
とても勢いのある声は相変わらずです。
「小林さんのおかげで無事に大和証券に入社することが出来ました。本当にありがとうございました。これからも仕事に励みます!」
「そうか、丁寧にありがとう。頑張れよ」
私は、まさかこの直後の小林さんとの会話で大和証券でのキャリア、いえ人生そのものの進み方が大きく変わるとは思いませんでした。
「小林さん、私は大和証券の社長になりたいと思っています。そこで、大和証券の社長になるためのアドバイスをぜひ聞かせてください!」
それまでの私の大和証券でのキャリアイメージは「M&Aの専門家や為替のディーラーのような仕事をし、経験を積んでから経営企画関連の部署に異動する」といったものでした。具体的な出世コースを想像していたわけではなく、ただ漫然と「涼しそうで知的で大きそうな仕事をして実績を積めばいいのではないか」くらいにしか考えていなかったのです。少なくとも「ドブ板営業」といったイメージのある個人向けの営業をすることは念頭にありませんでした。
「よもや大学院生を個人向け営業に配属することはあるまい」
同じ代の総合職には、文系の大学院生が私以外に二人いました。おそらく、私だけでなくその二人も同様の考えを持っていたでしょうし、大和証券としても「大学院生を営業で使おう」などと考えて採用していたわけではないでしょう。適材適所という観点から見ても、大学院生を営業で使う必然性などありませんでした。実際、その後彼らは本店の企画系に配属されることになります。
もし、私が入社式当日に小林さんに内線電話をかけていなかったら・・・今の起業家人生にはつながっていなかったと思います。きっと本社で汗もかかずに涼しい顔(実際には大変な仕事なのですが)をしていたことでしょう。小林さんからのアドバイスが私の人生を大きく変えることになります。
「あれ、増永はM&Aとかやりたかったんじゃないのか?」
「仕事としてはやりたいんですけど、最終的な目標はあくまで大和証券の社長になることです」
そんな私の意志を受けて、小林さんが発したアドバイスがこれでした。
「増永、だったら営業をやれ」
「え?!営業ですか?」
私にはその理由が全くわかりませんでした。
「どうして営業なんですか!」
「お前な、大和証券っていうのは営業が中心の会社であり、営業のできる人間が幅を利かせる会社なんだ。よく考えてみろよ、営業もやったことのない社長のいうことを誰が聞くんだ?だから、営業を経験していなければ社長には絶対になれない」
「そ、それで営業をやってどうすればいいんですか?」
「伝説的な営業成績を上げるんだ。歴代の社長たちは営業の面で数々の伝説を創っている。伝説的な実績があるからこそ、みんなもその指示に従うんだ。だから、もしお前がみんなに認めてもらえるような社長になりたければ、伝説的な営業成績を創るしかない。お前は営業マンとなって伝説を創れ!」
実際に、大和証券の社長となるために伝説的な営業成績が必要かどうかは定かではありません。しかし、大和証券が「他の業界の営業よりもきつい」ということで知られる証券業界の大手の一角であることを考えれば、やはり営業経験が全くないというのは、社長としてふさわしいとは感じられません。また、自分自身が大学院を出ているが故に「営業職」というものを軽視していたことも否めませんでした。それでは大和証券の社長になれる可能性は低いと思いました。
「こ、小林さん、アドバイスありがとうございました。実際のところ、私は営業職を念頭に置いていませんでした。これからは毎日の日報に『営業に配属してください』と書きたいと思います。そして、必ず営業マンとなり伝説的な営業成績を、伝説を創ります!」
社会人初日の私には「世の中のために」であるとか「お客様のために」といった考えはほとんどありませんでした。
「大和証券の社長になりたい」
私のこの単純な目標も、根底に何か崇高な考えがあったわけではありません。それは単に「出世競争に勝ち抜きたい」「大和証券の社長になれたら凄い」といったものであり、結局のところ、社長になることが目的であって「社長になってからどうしたいのか」「社長となってどうのように社会に貢献していきたいのか」という考えはほとんどありませんでした。ひとつあったとすれば「社長になって野村證券に勝つ!」というくらいのものです。
しかし、「大和証券の社長になる」というものでも、目標や目的が何もないよりは遥かにマシでした。なぜならば「大和証券の社長になる」ということも動機はどうあれ「方向性」としては決して間違ったものではないからです。結果として大和証券の社長となり、日本経済に貢献することが出来るかもしれません。動機が不純でも、向上心を持って、上を向いて仕事に取り組むこと自体はよいことです。
ただし、動機が不純ですとやがては「目的を達成するためには手段を選ばない」という行為につながりかねません。この頃の私は「勉強は出来ても人間としては未熟」という範疇から抜け出せてはいませんでした。従って、下手をすれば途中で人として正しいことから足を踏み外していた可能性もあります。
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「社長になるために営業経験が必要ならやるしかない」
私は内線電話を切った後、そう考えて覚悟を決めました。
起業し、社長を経験した今であれば「別に社長を『やる』のに営業経験なんて必要ない」ということがわかります。ましてや社長になる前に「伝説」なんて必要ありません(笑)。メールボーイから始まろうが、伝説なんてなかろうが社長の仕事なんて出来るのです(とはいえ、偉大な社長になれるかどうかは別の次元の話ですが)。
しかし、大和証券で「出世」して、社長に「なる」という意味では、営業経験や伝説が必要だったでしょう。そうでなければ出世レースに「参加」できません。歴代の社長たちがそうであったのであればなおさらでしょう。
おそらく、営業経験や伝説がなくとも「単なる社長」には『なれる』でしょうし『出来る』でしょうが、営業経験や伝説がなければ「大和証券の社長」には『なれない』ですし『出来ない』と思いました。
こうして「大和証券の社長になる」ということ以外にこだわりのなかった私は営業マンになることにしました。このような、ある種の「あっさりさ」を持ち合わせていることは私の長所なのかもしれません。
「ライブレボリューションを宇宙一愛される企業にする」
この目標(ビジョン)の根底には、世界を平和にし、人々を幸せにしたいという考えがあります。そういった考えの上に確立された目標は、単に「大企業の社長になりたい」という目標よりも遥かに価値があり、仕事のやりがいにつながっています。
かつて「大和証券の社長になるために職種にこだわらない」と考えて営業に転身したように、「ライブレボリューションを宇宙一愛される企業にするためにはビジネスモデルにこだわらない」と考え、実際にビジネスモデルを何度も変更してきました。このあたりの「あっさりさ」は今も昔も変わりません。
ただし、大和証券に勤めていた頃の私があくまで「自分中心」であったのに対し、今の私は「周りの人中心」となりました。これは大きな成長だと思います。自分のエゴがなくなった時、「悪いことをしてまで儲けたいとは思わない」という境地に達しました。出世のために仲間を犠牲にするようなことや金儲けのために不正をするようなことなんて、もはや永遠に考えることなどないでしょう。
私は社会人初日の日報に次のように記しました。
「営業に配属してください」
そして、配属が決まるその日までこれを書き続けました。
私が大和証券に感謝したいことの一つは、その願いを叶えてくれたことです。ありがとうございます。
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