【増永】 帰国後、実家に戻られてまずは稼業のほうを手伝われていますが、経営者であるお父様と意見の衝突などはあったのでしょうか。
そうですね、やはり売上げが落ちている状況下で、親子一緒に経営をしていくことは非常に大変なことでした。
● 具体的にどのような苦労があったのか、ぜひ教えてください。
それは2つありました。1つは、地域の中でのビジネスのあり方についての意見の相違です。私が新しく取り入れたビジネスモデルは、従来のものとは違い、地域に密着した取引先などに固執しない方法だったのです。
売上げが落ちている中で、新しいことをやろうとする息子・・・しかも今まで遊びほうけてきた息子がいきなり参加して、これまで築き上げてきたあらゆるものを変えようとするのを受け入れるのは、なかなか厳しい部分があったと思います。
それに父親は葬祭業35年のいわばプロです。一方の私は、経験ゼロ。売上げがこのまま落ち続けるのか、それとも食い止めて上昇させることができるか。そういうきわどい状況の中で、私自身の存在を会社がどこまで受け入れてくれるのか、メリットを生み出せるのか―経営者としても、おそらく非常に難しい判断を求められていたんですね。
留学時の学びのおかげで、「このままいくと会社は近い将来こうなる」というのが、簡単にシミュレーションできるようになっていました。しかし当時の父親は、このままいけばどんなことが起こりえるかという判断、感覚値が私とは逆をいっていて・・・私の感じる危機感とは大きな差がありました。
現状を鑑みてその先をシミュレーションしたとき、かつて経験したことのないようなことが起きる―私はそう確信していたので、どんなことがあっても、引かずに父親に意見を通さなければならない。そう覚悟していました。
だから一日中、父親を追いかけ回していましたよ(笑)。そのうちに、「家に来るな」と言われるまでになり、目さえ合わせてもらえなくなりました。それでも会社を守るためには、やり抜かなければなりません。じゃあ、どうすればいいのか・・・考えた結果、2つだけ方法があったのです。
まず、「銀行が言っている」と私ではなく外からの意見として聞いてもらうこと。そして孫を連れて何となく気まずい雰囲気の中、ごまかしながら話を聞いてもらうこと。この2つです(笑)。
実は、私が実家に戻ってから7年後に父親は他界しましたが、意見の対立が生じてからはお互いに目を見てきちんと話をしたのは、2,3回くらいだったと思います。笑うこともなくなり、今思えば寂しさもあり、本当に大変な時期でしたね。
● その間、売上げは落ち続けたのですか。
父親の会社は、3,4年は上昇しませんでしたね。ただし、エポック・ジャパンにおいては、最初の1年はうまくいきませんでしたが、途中からビジネスモデルを転向したことで軌道に乗り始めました。
父親の会社にあったなけなしの資金を使わせてもらい、現在も当社の主力商品である「ファミーユ」のホール展開―つまり、独自の葬儀場を構えるために設備投資したのです。フランチャイズにしながら徐々に展開していき、3,4年をかけてどうにかこれまでのマイナス分をカバーできるぐらいにまで前進しました。
それからは、このモデルをエポック・ジャパンとして他社に販売していき、株式公開を目指している時期があったので、そのタイミングで父親の会社を吸収合併したのです。それが7年前のことになります。
● 新しいモデルケースができたのは、ある意味お父様のおかげでもあるのですね。
そうなのです。実際、父親としては、同じ土俵で自分たちのやり方を全否定するようなビジネスモデルを展開されていくわけですから、相当嫌だったとは思います。だけど最終的には、設備投資のために資金を出してくれたし、そのまま好きにやらせてくれた。これは本当にありがたかったです。今なら素直に感謝を伝えられます。
ただ、父親が生きている間にはお互いの確執を埋められず、感謝の気持ちを伝えることはできませんでした。
【続く:3/5】