【増永】 佐野社長が会社を立ち上げる以前は、どのような人生を送られていたのか教えてください。
起業家になりたいという思いは昔から持っていたのですが、それは両親から大きく影響を受けたものでした。父親は工務店、母親は居酒屋をやっていて、私はその手伝いをしていたんですよ。
たとえば母親の居酒屋にやってくるサラリーマンのお客さんは、会社の悪口や仕事の愚痴なんかを言っている。一方、父親の職人気質の知り合いは、そうしたサラリーマンとは見事に対照的でした。威勢があり、仕事を楽しんでいる雰囲気を彼らから感じたのです。
こうした2つの生き方を目にして、「自分が働くのであれば、サラリーマンにはなりたくない」と思うようになっていたんです(笑)。
社会人になるにあたり、こうしてなんとなく選択肢が絞り込まれていったように思います。
その後の人生に影響があったところでは、もう1つ。小学校から高校までずっとサッカーをしていました。中学校・高校と地元鹿児島の県大会で優勝した実力あるチームにいたのですが、中学校は常勝してきているような伝統校でした。
一方、高校では、新しくチームを作り上げ、目標とする他校を設定して、「そこを倒そう!」という1つの大きな目標に向かってみんなで練習をして、結果、県大会で優勝することができたという経験があったのです。
当時、学生ながらも、自分たちで目標を設定してみんなで頑張れば、結果もきちんとついてくるということを学び、自分にとって大きな収穫となった経験でしたね。
そしてここまでお話しておきながら・・・学校卒業後は、実は4年間のサラリーマン時代を送っています(笑)。光通信という会社に入社しました。
● サラリーマンにはなりたくない、と仰っていましたが・・・(笑)。
そうです、そう言っていた自分がサラリーマンになってみて、「サラリーマンが日本経済を支えているんだ」と、1週間で考えが大きく変わりました。
光通信での環境はある意味非常に厳しくて、それまで「サラリーマンはぬるい世界で生きているのではないか・・・」という勝手な考えを持っていたのですが、180度考え方が変わりましたね。自分がその世界に入ってみたら、目標設定はもちろん、厳しく管理され、それに対して一人ひとりが真剣に考え行動していくことは、学生時代のサッカーで体験したことにものすごく近しいものがあったのです。
1つの目標に向かってみんなで力を合わせる−こうした節目があったので、社会人になってそれを目にしたとき、日本経済を支えているのはサラリーマンだ、と改めて思ったのです。
この気付きは私にとって、1つの大きな転換になり、両親のような店舗を展開するというよりも、会社というものを作っていきたいという思いに、いつしか変わっていきました。
● なぜ通信会社に入られたのですか。
不動産業界か通信業界、この2つで迷いました。バブル崩壊後ではありましたが、私の知り合いが不動産業界で働いていて、それなりに豊かな生活を送っていたんですよ。そういうのを傍から見て、いいなって(笑)。
一方、通信業界は、通信が自由化したばかりで一般的にはまだ受け入れられてはいないような時代でした。だけど人と人とのコミュニケーションという観点から、通信自体は将来的になくなるものではないし、むしろより進化していくであろう、と思ったのです。
やはり産業の進化という部分に着目してみれば、通信のほうが将来的な可能性を秘めている−こう判断しました。
そして光通信では、営業をしっかりと叩き込まれました(笑)。自分が起業するときでも、営業はある程度きちんとできるようになっていることが重要だと思っていたので、そういう意味で、この環境は恵まれていたと思います。もちろん、本から学べることもたくさんありますが、実体験を通して学び、得られるものをより多く持っていた方が、さらに強みになるじゃないですか。
いずれ起業家になったとき、絶対に役立つはず−そう思い、営業を希望したのです。
● 営業経験はいかがでしたか。
最初から営業成績はけっこう良くて、トップセールスマンにも何回かなったくらいです。21歳のときには1つの部署を任される責任者になり、営業成績とは別に、当時はマネジメントという壁にぶつかりました。
自分なりにどういったマネジメントをしていくべきか考えたどり着いたのは、もっと営業が生き生きとやれるような雰囲気のチームを作っていきたい、ということでした。そこで実際にやってみたのが、女性チームを作ったり、アルバイトでも営業のできるような制度を取り入れてみたり・・・従来なかったような、当時では斬新なアイデアを考え、実現していったのです。
会社自体はいい会社でしたが、やり方に関して言えば金太郎飴のようにどこも同じようなものになっていると感じました。そうじゃなくて、オリジナリティを発揮できるような形の部署を作って新しい風を吹かせたら、もっといい会社になるのではないか。そういう仮説をたて、いろいろと展開してみました。
次に、大阪支社の立ち上げに自ら手を挙げ、ゼロベースからこのプロジェクトに参画しました。それまでは本社にいたので、すべてが揃っている・・・総務も人事も、経理もいろいろな部署が当たり前のようにあったわけですが、大阪支社はゼロからのスタートだったので、何もない状況が当たり前でした。
求人も自分で対応しなければならず、求人広告の原稿を考え、面接や研修もやりました。本社機能から離れてはじめて、いろいろなことで守られていたんだということに気付かされたんです。ゼロから自分で作っていくという貴重な体験は、まさに経営に役立つ経験となりました。
大阪支社を立ち上げた後は、名古屋へ転勤、そして西日本ブロックの責任者となり、最後は全国を統括する責任者になったのですが・・・ある日、新幹線に乗り富士山を見て、そのまま最寄り駅で新幹線を降り、不動産屋へ飛び込み、オフィスの仮契約をしました。つまり、そのまま光通信を退職したのです(笑)。
● 起業時のお話を聞かせてください。
1995年、静岡県富士宮市にて、ビジョンを立ち上げました。特に静岡に縁があったわけでもなく、これまで各地を転勤した結果、どの地でもやっていける−そういう気持ちがあったんです。資金がさほどあったわけではないし、知り合いがいたというわけでもない。むしろ何のしがらみもない環境で、自分だけの実力で勝負していきたい−こう思っていました。
ですから、前職から仲間を誘うわけでもなく、まずは自分1人でスタートしたのです。
ただ、それまでの4年間で経験したことはとても大きいですから、会社に対して何かしら恩返しをしたいし、最低限迷惑だけはかけたくないとも思っていたんですね。
【続く:1/5】