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【増永】 井上社長がこれまで、どのような人生を歩まれてきたのか教えてください。
学生時代の就職活動では、商社マンになりたいという憧れがあり、総合商社を中心にまわっていました。商社に就職していた先輩もすごく魅力的な方が多く、世界をまたに駆けるようなビジネスをしたい―そんな夢があったのです。
ところが、就職活動を進める中、さまざまな産業を研究していくにつれ、自分が抱いていた理想と現実にギャップが生じていることに気付きました。
当たり前ですが、メーカーさんと商社との関係上、自分が担当するジャンルについてはある意味メーカーさん以上にプロフェッショナルにならなければ、商社マンとしての仕事は成立しないじゃないですか。たとえば食品を担当することになれば、その道のプロにならなければならない。だけど、私は食品のプロになりたいわけではありません。
そうしたことを考えたとき、単に「総合商社」という響きに憧れていただけであって、自分のこれからの人生、自分がなりたい社会人像が総合商社にあるかと言われると、違うように思ったのです。
もともと学生時代はバックパッカーで、その経験からいろいろな人に出会い、いろいろな産業に携わることもできました。それらがきっかけとなり、将来の仕事を考えたときに営業もやりたいし、いろんなことをやりたい・・・そんな人生を送りたいと思っていたのです。
世界中をまわるためには、たくさんのアルバイト経験を積みながら、勉強もしていました。大学2年生のときには宅建の資格を取得。3年生のときには簿記2級を取得しました。知識を得ながら世界を旅することで、自分の中で視野が広がり、学生ながらも人生の豊かさを経験したのです。
就職活動中、バックパッカー経験や商社へ憧れている自分自身を見つめ直したとき、偶然、銀行に就職した先輩に話を聞く機会がありました。このとき、銀行員が個人から中小企業、大企業まであらゆる業界に渡って仕事をされていることを知ったのです。先輩の話を聞いて、ものすごく銀行という組織に興味を持ち、そのまま銀行への就職を決めました。
● どのくらいの期間、勤めていらっしゃったのですか。
5年間で3つの支店を経験しました。銀行員でしか体験できない喜びや苦しみを、たった5年ではありましたがたくさん体験できて、すごく楽しい銀行員人生を歩むことができたんです。こうした体験をさせてくれた銀行には、今でも感謝しています。
当時の三和銀行に入行したのですが、営業職については他行よりも厳しい銀行だったんですよ。営業ノルマが厳しくて(笑)。だけどそこで経験したことは、確実に今の人生に活かされていますね。
余談となりますが、三和銀行のOBは一見、銀行員ぽくない人が多く、さらにものすごく魅力的な方ばかりなんですよ。たとえばタリーズコーヒーを作られて今は政治家である、松田氏もその1人です。
そうした魅力的な方の集まるOB会というのがあって、100人以上もの規模になっているのですが、その幹事を今、私はやらせていただいています。
● どのような経緯があって、銀行から現在の仕事につながったのでしょうか。
そもそも実家が中古車を扱った仕事をしていたのです。その縁から現在のビジネスになったのですが、もともと私自身は自動車業界に行くつもりはありませんでした。
たった5年ではありますが、銀行員を経験してみて感じたことは、間接金融の限界でした。いわゆる日本の銀行の金融の仕組みというのは、たとえば担保や格付け制度にがんじがらめになっていたりします。また収益性という観点からは、銀行の間接金融はリスクマネーの共有が絶対できないのです。
ひとつ事例を挙げると、当時の銀行の業務上における粗利は1%ぐらいでした。その内、経費で0.5%が使われ、利益は0.5%しか残りません。わずかしか残らないにも関わらず、取引先の状況が変わった瞬間・・・格付けが1ランクダウンしたら、引き当て金を何十%と積むのです。そんなことをしている銀行に、日本の景気をよくするためのリスクマネー供給なんてできるはずがないし、そもそも銀行はそれに手をつけてはいけないのです。
直接金融というマーケットをいかにしてこれから拡大していくか・・・これを考えるべきであって、当時の銀行が向かっていた方向は違うんじゃないかと思っていました。
自分自身、新規開拓を展開する中、業績は素晴らしいのにバランスシートの内容が悪くて、貸し出しが実行できない―いわゆる格付け制度上、良しとされない案件にたくさん遭遇したのです。これを業界的に表現すると、「バンカブルではない」と言って、銀行内ではこの言葉が飛び交っていました。つまりは、その案件に対しては融資可能な状態ではないということです。
このような状況だったので、このままでは日本の産業界は活性化しないな・・・と感じていた頃、人とのご縁がありカーセブンのビジネスに参入することとなりました。
1999年にカーセブンの前身である日本自動車流通研究所が設立されて、私自身は2000年3月末に銀行を辞めて同年にジョイン、現在の「カーセブンディベロプメント」へ社名変更をしたのです。
● 井上社長は、会社ができたその後に入られたのですか。
そうです、もともと実家を含むいくつかの中古車流通業者によって会社が設立されました。各会社から人が集まり、事務局が成り立っていたのです。月に一度、定例会が開催され、各社の社長たちがそれぞれにこの事業をこうしていきたい―という想いをもって参加されているのですが・・・実際に実行するわけではないから、なかなか前に進まないんですよ。
やはり責任者を1人立てる必要があったわけです。覚悟を決める責任者がいないと、そう簡単には事業なんてうまくいくはずないですから。
そこで幸か不幸か、私が責任者のくじを引いたというわけです(笑)。
これまでの自分の人生の中で、実家の商売と人生がラップすることはない生き方をしてきました。3人兄弟の一番下でもあり、もちろん銀行員時代には実家とは取引もしません。親から、「お前は自分で生きていけ」と常に言われていたのが大きく影響していますね。
ただしカーセブンとの出合いは、家業と自分の人生との絡みがこれまでとはちょっと違ったのです。
当初集まった会社の中では、事業規模が一番大きかったのは実家でした。さらに井上家の中で自由なのは自分しかいない(笑)。父親も兄たちもそれぞれに事業を持っていましたから。じゃあ、この状況において誰かがやらなければならないのであれば、それはきっと自分なのだろう・・・現実から逃げてはいけないんだろうなと、自分なりに思うところがあって、責任者という立場に立つことを選びました。
自分の人生のバックグラウンドを肯定的に捉えて、初めて自分で自分の人生のジャッジをした瞬間だったとも思います。
● その後、代表取締役社長に就任されたのは2005年ですね。
現実はそうですが、実際には関係ないんですよ。やっている仕事の中身は、カーセブンにジョインした2000年4月1日から今に至るまで、何一つ変わっていませんから(笑)。
もちろん、仕事のやり方や物事の考え方などは変わりましたよ。
私の上司は当時から今に至るまで誰もいませんし、物事上手くいけばそれは皆さんのおかげであり、失敗すればその責任はすべて私の責任―そうやってきましたから。
社長に至るまでには、平取締役からスタートして、代表権を持つ専務になり、社長・・・という流れで、個人的には何の関係もありませんでした。
● 入社してから、実質上ずっと社長だったようなものなのですね。
そうですね、27歳から自分が全部決めて進んできました。会社をどうしていくか、そんなことを自分が先頭に立って決めてきたのです。
【続く:1/6】
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