起業家物語
『起業家物語』は発行者: 増永 寛之の体験に基づいたストーリーです。26歳で大企業を退職し、ベンチャー経営の世界に飛び込みました。全く経験の無い社長業、インターネットビジネスという異業種への参入などでさまざまな困難に遭遇しました。同世代の若い人たちにも是非、自分のやりたいことに勇気を持って挑戦していただきたいという想いを込めて綴っています。
第84話『私が常に営業成績で一番だった理由』へ戻る 第82話『eBook Project』へ
| 第83話 2007年7月6日 |
礼儀正しさに勝る攻撃力はない
横浜市鶴見区にあった大和証券の鶴見寮から渋谷支店への通勤は、比較的車内が空いていた京急を利用していました。残念ながら座って通勤できるほど空いているというわけではありませんでしたが、新聞を読むのがラクでした。
証券営業マンは必ず日本経済新聞(以下、日経新聞)を読まなければなりません。読まなければ仕事にならないからです。
株価は「情報」によって大きく動きます。1999年当時はまだ、インターネットがもてはやされ始めたとはいっても、それを株式投資に利用している投資家はごく一部に過ぎませんでした。そうすると情報ソースの主役は、テレビや新聞になるわけですが、本気の投資家の大部分は日経新聞を読んでいました。
「投資家が読むなら証券営業マンも読む」
「証券営業マンが読むなら投資家も読む」
いずれの順番が正しいにせよ、株式市場に関わる者の視線は、日経新聞の紙面に注がれていました。これが媒体としての価値を高め、金融界においての日経新聞の地位を確固たるものにしていました。良くも悪くも日経新聞の記事となったものは、その日の株価に反映されることになります。そのため、証券営業マンは投資家(お客様)よりも先に日経新聞を読んでおく必要がありました。
「この銘柄、今日の日経新聞に出ていたよね?」
「この記事で、株価が上がる銘柄は何だと思う?」
電話を取ると、そのような質問を受けることが多々あります。その際に「わかりません」では話になりません。私は金融のプロフェッショナルとして、念には念を入れて、紙面の隅から隅まで目を通すようにしていました。
そんな新米証券営業マン時代の私が、渋谷支店への通勤電車で読んでいた日経新聞の記事に「おお!」と唸らされたものがありました。それは以下のような記事です。
日本経済新聞 1999年10月6日(水)朝刊 17面
『独立系ネット接続で初の公開』
新規公開が相次ぐ店頭株市場に、独立系のインターネット接続会社が初登場した。 8月27日に公開したインターキュー(現・GMOインターネット)だ。「インターネットにかける夢は大きい」と語る熊谷正寿社長は36歳。 富士通、ソニーなど大企業系列の接続会社が大きなシェアを握る業界で、サービス開始以来、 3年8ヶ月というスピード公開を果たした。(中略)
20歳の時、35歳で公開企業の社長になることを目標に、その後15年間にすべき事を年表にまとめた。目標設定と同時に上るべき階段を明確に定め、成功を信じて、実行してきた。携帯電話の裏にメモを仕込む。「書かなければ忘れる事も多い」。20歳で作成した年表や10数年間書き留めたメモ、スクラップした新聞記事を挟みこんだシステム手帳3冊を常に抱え、時折読み返しながら軌道修正する。
「思ったことは必ずやり遂げる意思の強い性格」と自己分析。手書き年表をパソコンのデータベース に移し替え、現在は90歳までの55年計画を作成する。(後略)
熊谷正寿氏(熊谷社長) ― 熊谷氏はGMOインターネット株式会社(東証一部上場)の代表取締役会長兼社長。『ニッポンの「インターネット部」をめざして!』。GMOインターネットは、インターネットになくてはならない企業として、お客様の「笑顔」と「感動」とともにインターネットの拡大に寄与し、社会に貢献することを目指す国内最大級のインターネット企業グループを形成している。
「こんなに若いのに上場企業の社長だなんて・・・凄い!」
私が「インターネット」と「ビジネス」を結びつけて考えるようになるのは、この日の翌日、すなわち10月7日です。私は、その7日の夜、『Bit Style』にはじめて参加しました。
ですから、私は、この記事の中に出てくる「インターネットにかける夢は大きい」という言葉には何も反応できませんでした。インターネットがビジネスになるとは思っていなかったからです。そんな私は、ただただ、「この熊谷社長という人は凄い人だ。いつかお会いしてみたい」という感じで記事を読んでいたのでした。
その後、『Bit Valley』(以下、ビットバレー)に関する本を書くことになったとき、私はスクラップしていたこの記事を再び手に取りました。
「そうだ、熊谷社長は渋谷にオフィスがあるからビットバレーと関係があるはずだ。ビットバレーを代表するインターネット企業として取材対象に入れよう!」
縁あって出版のお手伝いをすることになった『ビットバレーの躍動(仮題)』の取材対象者リストのトップに、私は熊谷社長の名前を書き込みました。
「間もなく品川です。お降りの際は・・・」
渋谷支店への通勤途中、私の場合は、品川で京急からJR山手線に乗り換える必要がありました。その際に車窓から見えたのが、品川駅東口再開発プロジェクトの工事です。
「いつも東口は工事しているけど、どんな高層ビルが建つんだろう。どんどん都会化していくんだろうな。いいなぁ」
奈良出身の私には、どうしても高いビルがうらやましく感じられました。やがて、品川駅の東口には40階を超えるビル群が建ち並ぶことになります。
「いつかこういうところにも住んでみたい」
そう思いました。
★ ★ ★ ★ ★
『ビットバレーの躍動』のお手伝いをすることになった私は、熊谷社長にアポをとりたいと考えていました。するとタイミングのよいことに、ある監査法人が主催する「株式公開セミナー」で熊谷社長が講演をするという話を耳にしました。
「よし、どうせなら直接お会いして取材を申し込もう!」
こうして、1999年11月10日に虎ノ門のビルで開催された熊谷社長の講演会に参加することになりました。会場に入ると200人くらいの受講者がいました。
「会社を創ってから10年以内に上場出来る確率というのは、野村総合研究所の調査でいうと1000万分の17でした。つまり創業後10年以内に上場できる会社というのは100万社あって1.7社しかなかったわけです。それが実現できたのは、15年計画をたて、若い頃から夢に向かってがむしゃらに努力してきたからです」(※1999年11月時点・談)
熊谷社長のお話は、すべてに理路整然としていて、その立ち居振る舞いから物凄いオーラを感じました。
夢の実現方法から、経営手法、株式公開への道のり、インターネットの未来まで、わずかな時間で凝縮してお話してくださいました。周りの人たちも真剣にメモを取っていました。
「こういう方が、日本のインターネットビジネスを牽引していくんだ」
私は熊谷社長の姿にあこがれました。ただ、この時点の私は起業家になるという願望がほとんどなかったため、どちらかというと金融マンとしての立場で話を聞いていました。ですから、「熊谷社長のような経営者になりたい」ではなくて、「熊谷社長のような方を株式市場を通じて支援したい」と考えていました。もちろん、起業家としてインターネットの世界に足を踏み入れたとき、私が熊谷社長のような経営者になりたいと思ったのはいうまでもありません(笑)。
講演会の第一部が終わり、第二部の懇親会にうつりました。ここでは、受講者と熊谷社長の名刺交換の機会が設けられていました。
大変な人気の熊谷社長の前には、名刺交換を希望する人たちの長い列が続いています。書こうと思っていた本のインタヴューを申し込むつもりだった私は、なるべく最後に挨拶するのがいいと判断し、懇親会の終わりごろに名刺交換をお願いしました。
「熊谷社長、ぜひインタヴューをさせてください」
私の申し出に「ぜひよろしくお願いいたします」と快くお引き受けいただきました。笑顔でご快諾いただけたことに感激しました。私は、「なんてさわやかでかっこいいのだろう」と思いました。
別れ際に固い握手をしていただき、私はお辞儀をしてその場を離れました。そして、歩いて2、3歩のところで振り返ったそのときです。
「え!!」
私の中に大きな衝撃が走りました。振り返った私の視線の先にあったのは、頭を深々と下げたままの熊谷社長の姿だったのです。
証券会社入社一年の私に、上場企業の社長が頭を下げていました。しかも、私がその場を立ち去った後も、その姿勢を崩していませんでした。それに引き替え私といえば、熊谷社長よりも先に頭を上げたうえに早々とその場を立ち去っていたのです。
このとき、「私は熊谷社長の足元にも及ばない」と思いました。そして、「こんな人が世の中にいるのか」と大きなショックを受けました。
そんな熊谷社長が2004年に書かれた『一冊の手帳で夢は必ずかなう、なりたい自分になるシンプルな方法』には、熊谷社長ご自身が過去に読んだ『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(G・K・ウォード)という本についての感想が述べられていました。ウォードの「礼儀正しさに優る攻撃力はない」という言葉を見つけたとき、熊谷社長は大きな衝撃を受けたそうです。
「礼儀正しさが大切なことは承知していたつもりですが、それを『攻撃力』という視点から見たことがなかったからです」(『一冊の手帳で夢は必ずかなう、なりたい自分になるシンプルな方法』かんき出版・2004年)より
★ ★ ★ ★ ★
熊谷社長との衝撃的な名刺交換が終わり、私はセミナールームの窓際に歩み寄りました。そんな時、思いがけず後ろから声をかけられました。
「増永さんじゃないですか」
振り向くとそこには、メールニュースの才式社長が立っておられました。
「今日は、熊谷社長に『ビットバレーの躍動』の取材の申し込みをしたくてきたんですよ」
この私の言葉に、才式社長は一段と笑顔になって「だったら、いい人を紹介してあげるよ」といいました。
「ビットバレーの生みの親だよ」
私はその言葉に驚き、そして「ぜひ!」と答えました。才式社長は「ちょっと待っててね」といってその方を呼びにいきました。
「ネットエイジの西川です。どうも」
私が立っていた窓際に現れたのは、ビットバレーの共同提唱者の一人である西川潔・ネットエイジ代表取締役社長(以下、西川社長)でした。
西川潔氏 ― 現・ngi group(東証マザーズ上場)の会長であり、株式会社ネットエイジの代表取締役でもある。1999年に東京・渋谷の「ビットバレー」を提唱。ベンチャー企業の支援を続けてきた。
なんと、私が書こうと思っていた「ビットバレー」の生みの親に、意外なところで出会うことが出来たのです。私は躊躇することなくインタヴューを申し込みました。西川社長も快く受けてくださいました。そして、私と西川社長と才式社長の3人は、窓の外に広がる夜景を眺めながら、今後のインターネットや起業家による日本経済発展について話をしました。
「私は、西川社長に覚えていただかなければならない」
本能的に、私は西川社長の偉大さを感じたような気がしたのです。
「なぜだかわからないけれども、西川社長とはご縁を感じる」
おそらく、そう私に感じさせたのは、西川社長の人柄だったのでしょう。西川社長の人柄には、人を惹きつけるものがありました。結局、「ビットバレー」のブームが終焉したあとも、その人柄に多くの若手起業家が集まっていくことになります。私もそのうちの一人でした。
西川社長はワインを飲み干し、グラスをテーブルにおいて、私に別れの言葉をかけて下さいました。
「また、お会いしましょう」
そう言って立ち去った西川社長は、私がいつまでも深々と頭を下げていたことに、果たして気付いておられたのでしょうか(笑)。
私は講演会の帰りの電車の中で、熊谷社長と西川社長にはじめてお会いしたのが、同じ日だったことを運命のように感じていたのでした。



