起業家物語
『起業家物語』は発行者: 増永 寛之の体験に基づいたストーリーです。26歳で大企業を退職し、ベンチャー経営の世界に飛び込みました。全く経験の無い社長業、インターネットビジネスという異業種への参入などでさまざまな困難に遭遇しました。同世代の若い人たちにも是非、自分のやりたいことに勇気を持って挑戦していただきたいという想いを込めて綴っています。
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| 第59話 2007年2月4日 |
ストーカー事件簿 ファイル1
1998年5月中旬。
私の就職活動は大和証券から内定を頂いたことで終了しました。心の底から満足できる会社に入社できることになった私は、意気揚々と早稲田大学大学院の「商研休憩室」に顔を出しました。
「これでやっと修士論文に打ち込めますよ」
同級生のゼミの仲間たちも大手メーカーや大手新聞社に内定していましたので、商研休憩室は明るい雰囲気に包まれていました。
「ほんと、久々に顔を出しましたがみんなに会えてうれしいです」
就職活動を行っていた4月は、忙しさのあまり履修科目の登録以外の用事で学校に来ることはありませんでした。
「そういえば、ゼミに後輩も入ったんじゃないですか?」
私は、大手新聞社に内定した同じゼミの高田さん(仮名)に尋ねました。
「なんでも今年の新入生は三名で、みんな女性だってよ。そのうち二人が中国からの留学生らしい」
「へー。僕たちのときは7人全員が男だったけどね(笑)」
後輩たちの話題を楽しんだ後、私は黒いソファーから立ち上がり、分厚い文献を抱えて商研休憩室の奥にある複写機のほうへ歩いていきました。
「お、増永。もう勉強か?」
修士論文で参考にしようと思った文献をドア脇の複写機でコピーをとっていると、授業を終えた先輩達がやってきて声をかけてくれました。
「さっさと修士論文を書いてしまおうと思いまして。これから年末までたっぷり時間があるわけですが、私は悠長にやるタイプじゃありませんから」
小学校の夏休みの宿題は、夏休みに入るまでに終わらせる―何事も早め早めに片付けて、後でゆとりを持たせたいというのが私の性格でした。
間もなくコピーを終えようかという頃、不意に後ろから声をかけられました。
「あの〜〜」
その声はとても線が細く、すこし震えているようでした。振り返ると一人の見知らぬ女性が立っていました。
「あ、もうすぐコピーは終わりますから」
待たせては悪いと思い、急いでコピーを終わらせようとすると、再びか細い声で呼びかけられました。
「あの〜〜、宮澤ゼミの増永さんですよね。お噂はかねがね伺っております」
会ったこともない女性に「宮澤ゼミの増永さん」と言われるとは思いませんでした。
「そうですが。あなたは?」
「私は今年入学した田淵(仮称)と言います」
「ああ、今年女性が三名入ったと伺っています」
内心、私はそれを聞いて驚きました。なぜなら、見るからに私よりも年上だからです。「後輩」という意味での固定概念でいえば、自分より若い女性を想像していました。ところが、その女性は20代には見えません。髪は真っ黒でボサボサ。それは真ん中で分かれていて、腰の位置まで伸びています。カッパのような形状の平べったい顔に、開いているのか閉じているのかわからないくらい細い目が・・・それは眼球の動きがかすかにわかるかどうかという感じでした。
身長は160センチくらい。細いというよりはガリガリに痩せており、緑のポロシャツに真っ赤なスカート。さらに、そのスカートから下に伸びる脚はタイツのような白いストッキングに包まれており、これまた真っ赤なローヒールを履いていました。
本能的に悪寒を感じた私はコピーが終わっていないにもかかわらず、手にしていた文献を閉じて、その場を立ち去ろうとしました。ところが、そのか細い声は三度私を呼び止めました。
「あの〜〜、お伺いしたいことがあるのですが・・・」
「なんでしょう?」
「さっき出席していた授業についてなのですが・・・」
それはちょうど私たちのゼミの教授である宮澤先生の授業で修士一年生向けのものでした。
「どうしました?」
「増永さんは昨年どのような勉強をして単位をとられたのですか?」
昨年にとっていた授業でしたので「それなら簡単だ」とばかりにポイントを教えてあげました。
「昨年は、そういうレポートを書きなさいという課題が出たわけですよ。で、私はこう書いたわけです」
彼女はニタリといった感じで笑いました。
「増永さんて、優しいんですね」
薄目を開けたようなその目は私の目を見ているようでした。ところが私は、思わずその視線から目を背けました。まさに「幽霊」―近くにいるだけで身の毛がよだつような不気味な感じだったからです。
・ ・ ・ ・ ・
その週のよく晴れた日曜日。昼食をとり、絶好の洗濯日和ということで白いTシャツをベランダで干そうとしたとき、自宅の電話が鳴りました。
「あの〜〜」
「はい?」
「増永さんのお宅ですか・・・」
「そうですが、どちら様ですか?」
「田淵ですけど〜〜」
か細い声の主は、ゼミの後輩である田淵さんでした。
「ど、どうなさったんですか?」
「あの〜〜、今から増永さんの家に伺ってもよろしいですか?」
驚きました。一体、今から私の家に来て何をしようというのでしょうか。
考えてみれば自宅の電話番号など教えたことはありません。ましてや住所など・・・。ところが先方は、電話番号どころか住所まで知っているような口調だったのです。おそらく、ゼミの名簿で調べたのでしょう。
「いや、その・・・、今ちょうど洗濯物を干したり、家の掃除をしたりしていたところなので」
「でしたら、私が掃除を手伝いましょうか」
「え、えっと・・・それは結構です」
「では、今夜一緒に食事でもいかがですか?」
困りました。正直な話、田淵さんと食事をしたいとは思えなかったからです。なんとか断り文句を考えなければなりません。
「今夜は彼女と会う約束をしているので無理なんです」
流石に彼女がいることを持ち出せばあきらめてくれるだろうと思いました。ところが、その考えは甘かったようです。
「では、夜中でも構いませんのでカラオケでも行きませんか?」
それはもっとやばい・・・。田淵さんと個室で二人きりになるなんて考えただけでもぞっとしました。
「いえ、今日は日曜日ですから・・・」
「増永さんはカラオケでB'zを歌われるんですよね」
そこまで知っているのかと恐ろしくなってきました。
「私はTRFを歌うんですよ」
そんなことは聞いてないぞと思いながらも、どうやって電話を切ろうか考えていました。
「とにかくですね・・・今から洗濯物を干さないと乾きませんので切りますね」
これが、田淵さんからのストーキングの始まりでした。
・ ・ ・ ・ ・
翌日、私は大学院の商研自習室でコトラーの文献に目を通していました。
おそらく自習室には30席ほどあったでしょう。その一つ一つにパーテーションがあり、読書用の蛍光灯がついていました。私は昼間からその蛍光灯をつけ、黙々と読みふけっていました。
「コツ、コツ、コツ・・・」
狭く静かな自習室内にヒールの音が鳴り響いています。
自習用の机についているパーテーションは高く、顔を上げただけでは室内を見渡すことは出来ません。私は一度頭を上げたものの、再び前かがみの姿勢に戻りました。そして、左ヒジを机の上につき、その手のヒラで頭の後ろを抱えるようにして読書を再開しました。
「コツ、コツ、コツ・・・」
ヒールの音が私のすぐ左の席で止まりました。そして、誰かがイスに座りました。
「クチャ、クチャ、クチャ・・・」
自習室内が静かだったこともあり、ガムを噛んでいるようなその音が私の左耳に入ってきました。
「うるさいなぁ」
そう思いながらも私は本に意識を集中させました。
「あの〜〜」
私は左の席に座った人間に声をかけられました。それはまたもや田淵さんでした。
「増永さん、何の本を読んでいるんですか」
お互いイスに座っていたこともあり、この前に会ったときよりも田淵さんの顔を間近で見ることになりました。
「えっ」
よく見ると、田淵さんの顔の左半分は顔面神経痛のように小刻みに震えています。そしてガムを噛んだようにくちゃくちゃと口を動かしていました。
「この音が鳴り響いていたのか・・・」
背筋が寒くなりました。何から何まで不気味なのです。
「あの〜〜、これは〜〜」
田淵さんは、イスから身を乗り出し、私の本を覗き込もうと近寄ってきました。その痛んだような黒い髪の毛が私の本に触れそうになりました。
「あ、これはマーケティングに関する本です」
私はその本を急いで持ち上げました。
「増永さんは、どのようなテーマで修士論文を書かれるんですか?」
田淵さんの質問攻めが始まりました。しかし、こちらがいくら小さな声で話をしたとしても、自習室内で勉強している人たちに声が届いてしまいます。
「田淵さん、大変申し訳ないのですが私も勉強したいですし、他の人も自習室で静かに勉強したいと思っているわけですから話しかけないでください」
私はそういって、筆記用具と読みかけの本をカバンに詰め込み、自習室から逃げるように立ち去りました。
・ ・ ・ ・ ・
商学研究科(商研)が入っている9号館をあとにした私は、西早稲田キャンパスの北門を出で、道を挟んだところにある中央図書館に入りました。
地下2階、地上4階建ての新しい中央図書館は、真上から見ると二等辺三角形のような形をしています。その図書館は蔵書も豊富で、インターネットに接続したパソコンが入り口の近くにずらりと並んでいました。
私は中央に配された階段を上り、3階の社会科学の文献が保管されている本棚の間を通り抜け、フロアの隅の図書閲覧席に座りました。
「よし」
閲覧席のパーテーションに備え付けられた蛍光灯をつけ、気を落ち着かせて本を開きました。
それから15分ほど経った頃です。
「コツ、コツ、コツ・・・」
後ろからヒールの音が近づいてきました。
まさかと思って振り向くと、後ろに並んでいる閲覧席と閲覧席との合間から緑色のポロシャツを着た田淵さんが見えました。
「マジかよ・・・」
田淵さんはまだこちらに気付いていないようです。
私はさっと腰を浮かし、更に身をかがめてイスの陰に体を隠しました。
「間違いなく僕を探している・・・どうか気付かれませんように・・・」
息を潜め、彼女が通り過ぎることを祈りました。
幸い、彼女は私に気付くことなく中央の階段を降りていきました。
姿が見えなくなって安心した私は、気を取り直して本に集中しました。
・ ・ ・ ・ ・
私は本を読んでいると時が経つのを忘れてしまいます。窓の外は既に暗くなっていました。
読み疲れた私は、中央の階段のそばにある丸くカーブしたソファーにもたれかかりました。
そしていつしかウトウトしてしまい、そのまま眠ってしまいました。
ところが、眠っていたにもかかわらず、突然背筋が凍るような悪寒を感じたのです。
ハッとして目をあけると、大きく開いた手のひらがすぐ目の前まで迫ってきました。
「うわっ」
思わず叫び声を上げ、その手のひらを右腕で払いのけました。あまりにその手のひらが近づいていたため、払いのけるまでそれが誰のものなのかわかりませんでした。
「ちょ、ちょっと、あなたは何を考えているんですか!」
開けた視界のその先に立っていたのは驚くべきことに田淵さんでした。
「その〜〜、増永さんは寝ていらっしゃるのかなと思って・・・」
だからといって、寝ている人の顔に手を伸ばしてくる人がいるのでしょうか。
「寝てましたよ。でも、田淵さんには関係ないですよね。私はまだ眠いので邪魔しないでください!」
これ以上会話を続けたくないと思った私は、そのまま目をきつくつぶって寝たフリをしました。
「もういないよな」
正面に立っていた田淵さんの気配が消えたため、私は薄目でその存在を確認しました。
「よかった。いなくなった」
ほっとしたのも束の間、左の耳に「クチャ、クチャ、クチャ」という音が聞こえてきました。
なんとすぐ左隣においてあるソファーに田淵さんが座っていたのです。
「どうしよう・・・」
私は不安に駆られました。今日は切り抜けたとしても、このようなことがまた起こるかもしれません。少なくとも同じゼミに所属しているため、週に一度は顔を合わせなければならないのです。
「ゼミの日だけ我慢すればいいんだ」
ところが、私のこの時点での考えは甘すぎるものでした。彼女との遭遇は、週に一度では留まらなかったからです。更にいえば、学校だけでも済みませんでした。
『ストーカー』・・・忍び寄る者の意。自分が一方的に関心を抱いた相手にしつこくつきまとう人物。待ち伏せ・尾行・手紙や、昼夜をかまわないでファクス・メール・電話などの行為を執拗(しつよう)に繰り返す。「大辞泉」より
「ゼミの名簿だけじゃない。大学院の卒業者名簿からも私の連絡先を消さなければならない・・・」
私は卒業前にそんなことまで心配しなければなりませんでした。
彼女と出会ったあの日から早稲田大学大学院を卒業したその日まで、私は本物のストーカーの恐怖を味わい続けることになります。
つづく


