【増永】 日本マンパワー社に戻られて、どのような仕事を任されたのですか。
半年ほどは新卒の教育担当者、以降は東京の営業部長や営業本部長を任されました。ポジションは上がっていったのですが、正社員になることはなく変わらず契約社員のままの雇用関係で、取締役になりその後社長に就任したんですよ。
● 契約社員から社長まで一気にこられたわけですが、他にも社長候補となるような方がいらっしゃったと思います。なぜ加藤社長が選ばれたのでしょうか。
明確な理由は分かりませんが、タイミングが大きいと思います。私が日本マンパワーに呼ばれたということは、おそらく当時の社長は既存の社員や役員に何かしら不満を抱いていたと思うんですよ。きっと解決のためにいろいろな策を講じられたとは思いますが、その1つとして、過去にそこそこの業績を上げた社員である私を呼び戻した。あとはキャラクターとしても面白かったのかもしれないし、相性も良かったのかもしれません(笑)。
呼び戻すからには、「何かやってくれるのではないか」という期待が非常に大きかったと思います。
今思えば、こうした人事はオーナー会社だったからこそできたのかもしれません。大手の企業であれば、まずこうしたことはないでしょうから。
● では、現在の御社の事業内容を教えてください。
大きく分けて2つあります。1つは創業ビジネスでもある人材紹介。今では当たり前ですが、創業当時・・・1967年当時は、聞くところによると人材紹介業を展開する会社は全国で2、3社しかなかったそうです。
転職なんて今では何の珍しさもありませんが、その頃というのは終身雇用の時代で「転職」なんていうのは非常にレアなケースだったと思います。
健康面での問題を抱えて仕方なく会社を辞めたとか、金銭問題で会社を辞めて・・・そういう理由から再就職を希望するというケースが主な転職理由かと。ですから、人材紹介する側としてはほとんど売上げが上がらなかったと思います。そもそもニーズが少なかったわけですから。当時を振り返って、「非常に苦しい時代だった」とも聞いています。
その苦労の中、創業者であった社長は中小企業診断士の資格を取得していたことから、資格について勉強してその資格そのものを取得する「中小企業診断士受験講座」を開講したのです。これがまさにブレイクしたようです。
当時珍しかった人材紹介業を展開する会社が、教育事業を始めたということでも、注目されたのです。
はじめは、日本の年功序列の企業社会の中で、転職を斡旋するような会社がある―ということで少し注目を集め、次にそんな会社が新しく教育事業を始めたと2度目の注目を集めました。
そうした流れがくる中、中小企業診断士というのは、金融機関で働く人にはぴったりの資格であるという方向に話も展開して、当時のある都市銀行で1,000名ぐらいが受講されたんですよ。
これでようやくまとまったお金が会社に入り、人材紹介業を継続しつつ資格取得のための人材教育業にも注力することとなりました。後者についてはスタートこそ個人からのお申込みを中心としていましたが、一方で企業内で社員に資格を取得させたい、あるいは社員教育の一環として取り込みたいといった要望も増えていたのです。
そこで、企業内教育サービスのための営業部門を立ち上げました。これが対法人の教育営業部署である、「人材開発部」となります。
この人材開発部が想像以上に伸びていきました。
こうして創業以降、人材ビジネスと人材教育ビジネスの2つを柱として展開していったのです。
しかしながら今でこそ2つの柱と申しておりますが、それまではその2つを中心に多角化を目指し手を広げすぎた感があったのです。バブル崩壊を機にこれまでどおりの展開は厳しい状況となっていきました。負債は増え、さらには社員も辞めていく・・・マイナスのことが重なっていったのです。
会社を取り巻く環境は変わらず、むしろ厳しくなる一方。そこで、私が引き継いでからは「選択と集中」を掲げて採算性の低いものはどんどん撤退、縮小を実施して、今日のビジネスに至ります。
● そうした変化は、社内ではどのように受け止められたのでしょうか。
社員には事業コンセプトを転換するということで、「総合人材開発の会社から、キャリア開発支援のナンバーワン企業を目指す」と宣言しました。
一方、社外向けとしては「キャリア開発、キャリアカウンセリングの日本マンパワー」というキャッチコピーでビジョンをリニューアルして展開しています。
【続く:2/5】
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