こんなにも想ってくれている人がいる
佐野径(大和証券株式会社 現・自由が丘支店長。大和証券時代、私のチューターであり渋谷支店のトップ営業マン。素晴らしき師匠へ、不出来な弟子でたくさんご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした!そして、ありがとうございます)
「増永君は自分自身でも公言しているように『努力する』という才能をもっていると思います。当時、新人教育の方法としてはあたりまえの“修行”に『名刺集め』というのがありました。これは古より伝えられた古式ゆかしい伝統なのですが、私はあえてこれをさせませんでした。理由は簡単で、彼には既に『努力する才能』が身についていたからです。その時期に、2年先行(2年若い)社員とそんなコンペをさせても、“くだらない工夫”をして自身を歪めるだけだと思ったからです。そんな事はお構いなく、増永君は同期のやっている『それ』をやりたいと進言してきたものですから、『親の心子知らずここに極まれり』と言う感じでした。結果についても、本人や、同世代には受け入れられた工夫のようでしたが、本来の彼のよさとは程遠かったのではないでしょうか。・・・と勝手を書きましたが、また会いましょう!」
某先輩(現在、大和証券SMBCに勤務中。リテール出身の珍しい公開引受マンであり、この道は12年、ネット関連のマザーズ案件を中心にIPO実現に尽力されています。起業後も、社内組織体制でわからないことがあると私はよく電話させていただいています。いつもお騒がせいたしております。ありがとうございます)
「最初にお会いしたのは渋谷支店のみなさんとマージャンをした雀荘だったと思います。とにかく雰囲気がスマートで格好良く『こんな男が証券会社にいて良いのか』と正直思いました。来る業界が違うのではとも(笑)。ところが、外見とは裏腹に、未来に対する強くて明確な、かつ、オリジナルな意志・考え方を感じました。また、仕事上は弁が立ち関心事には食らいつく目つきをされていました。今でも一番よく覚えているのは、最初に卓(マージャン)を囲んだ時に圧倒的に敗北したことと三上さんと3人で酒を酌み交わしたこと(確か宇宙の話をされたような・・・)あと、生意気にも貴社においてIPO勉強会の講師をしたこと(笑)も思い出深いです。ところで、大和証券についても一言・・・やはり良い意味でのんびりしているところだと思います(同業他社と比較してギラギラしていない)。また、ダイワライフという言葉(ノムラライフやニッコウライフはないそうです)に象徴されるようにプロパーの方は当社におけるキャリアアップを考えている人が比較的多いと思います。そういう意味でよい会社だと思います。これからも増永社長には、社会に対する貢献活動をライブレボリューションを通じて、大きな形で果たしてほしいですし、従業員の幸せの最大化を継続して拡大してほしいと思います。そして是非100億以上のIPOにこだわってほしい!夢、特に高い志を大事にしてほしい! と願っております」
大和証券を去る日が近づいていました。
そして、起業家になる日も近づいていました。
大和証券を辞めて新会社の社長となる前に、ぜひ一度お会いして将来の自分のお手本にしたいと考えていた先輩経営者がいました。それは、現・GMOインターネット株式会社の熊谷正寿社長(以下、熊谷社長)です。
当時、熊谷社長は渋谷の桜丘にあるインフォスタワーにオフィスを構え(現在は、渋谷のセルリアンタワー)、破竹の勢いで同社を急成長させておられました。その熊谷社長にアポイントをとらせていただき、アドバイスを頂こうと考えていたのです。
私にとって、熊谷社長は憧れの存在であり、目標であり、尊敬する人物でした。もちろん、お忙しいことは百も承知です。熊谷社長は当時からお忙しいことで世に知られた方でもありましたから。
それでも、この一生に一度の起業という節目で(何度も起業する方もいらっしゃいますが)、私は熊谷社長にどうしてもお会いしたかったのです。そして、書籍だけでは伝わってこない熊谷社長の持つ「何か」を、この目で・この耳で感じ取りたいと思っていたのでした。
それはとても恐れ多いことと知りつつも、私は熊谷社長との名刺交換の折りに頂いていたメールアドレスに「面会を申し込みたい」という旨を書いて、メールを送りました。
すると、熊谷社長じきじきに返信が帰ってきました。
まず、そのこと自体が感動でした。
熊谷社長といえば、秘書の方が何人も(当時は、たしか3名でした)おられるのです。そんな熊谷社長から返信を頂いたわけですから。
私は喜んでインフォスタワーに出向くこととなりました。
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熊谷社長との面会の日、私はとても緊張していました。その最大の理由は、熊谷社長の貴重なお時間を無駄にしないかどうかです。何の実績もない人間が熊谷社長とお会いするわけですから、少なくとも粗相をするわけにはいきません。社会人経験も乏しかったわけですし、その緊張度合いは相当なものでした。
GMOインターネット社が入居していたインフォスタワーとその同社のオフィスには、それ以前に一度『ビットバレーの躍動』(仮題)の取材で訪れています。同著のため、熊谷社長にインタヴューをしたからです。その際には、インタヴューという大義名分があり、その本が売れれば、熊谷社長の知名度や信用が向上するという「価値」がありました。しかし、今回の面会にはそれがありませんでした。
「失礼します。熊谷社長とお約束させていただきました。増永です」
私は、受付の女性にそう告げました。もう「大和証券の増永です」という挨拶はしませんでした。
「どうぞ、社長室はこちらです」
そういって先を歩く女性の背中を眺めながら「社長室・・・そういえば、はじめて社長室というところに入るのでは?」と気付きました(ちなみに、書籍のインタヴューでは同社の会議室を使っていました)。
「す、凄い!」
開いた扉の先には、自分がそれまで想像していた「社長室」というものを超えた空間が広がっていたのです。
まず、ドアを入ってすぐのところに、デスクが3つありました。それはすべて熊谷社長の秘書の方のものでした。お忙しい熊谷社長のところには毎日膨大な数のメールが届くときいていました。それらをさばいたり、日々の業務をこなしたりするためには、秘書の方が3人も必要だったということです。
確かに、たくさんのグループ企業を統括し、たくさんの方とお会いしなければならない経営者であれば、そのくらいのサポートは必要不可欠です。私はこのとき、「将来は、必ず秘書をつけよう」と思いました。
もちろん、「秘書」が欲しいのではなくて、秘書が必要なくらい多忙な経営者になりたいという意味です。ちなみに、私は2005年から秘書の方に仕事を手伝っていただくようになりました。今となっては「もし、秘書の方がいなかったら」と思うとゾッとするぐらいサポートしていただいており、毎日感謝する日々です。ありがとうございます。
「何だあれは!?」
一瞬思考が止まるほど驚いたのは、広い広い(本当に広い社長室でした)社長室の真ん中に陣取っていた雑誌の「山」でした。見たこともないほどの雑誌が、おそらく2〜3メートル四方に積まれていたのです。
「数千冊?もしかして1万冊以上?」
情報収集が大切なのはわかっていたつもりですが、その半端のない量に圧倒されました。
「増永さん、いらっしゃい」
目の前の雑誌の山の脇に、さわやかな笑顔をたたえた熊谷社長が立っておられました。
「このたびは、誠にありがとうございます」
自分で想像できうる限り最大限丁寧な感じで挨拶をするよう心がけました。
「こちらにどうぞ」
そういって、熊谷社長は左の手のひらで、革張りの黒いソファーに座るようすすめてくださいました。
私は、ソファーに座ると自分のノートPCをカバンから取り出して、パワーポイントというプレゼンテーションソフトを立ち上げました。
「こんなビジネスを考えているんです」
今から思えば、なんともつたないプレゼンでした。それでも、熊谷社長は最後まで笑顔で私の話に耳を傾けてくださったのです。
「熊谷社長、最後に経営者として成功するために、特に事業上で成功するために大切なことを教えていただけないでしょうか」
そんな私の質問に対する熊谷社長の答えはこうでした。
「それはですね、ストック型のビジネスに注力することですよ。事業家でも、これはなかなか気付かないことです。『一度ご契約頂くと継続して利用されるビジネス』が、実に上場企業の中で大半を占めています。私は、ご契約頂けると毎月毎月、毎年毎年収入が入ってくるようなビジネスを手がけてきました。そういうビジネスをやるほうが会社を成長させやすく、『なくてはならない企業』といったものを目指すには近道になるはずです」
実際、私はこのような素晴らしいアドバイスを熊谷社長から頂いていたにもかかわらず、7年間もそれを実現することができませんでした。ですが、今ようやくそのストック型ビジネスに乗り出したところです。
熊谷社長からの上記の助言はずっと頭の中にありました。そして、重要性についてもわかっていたつもりです。ところが、それを実現するだけの才能がありませんでした。ここにこうして頂いたアドバイスを記しながら、身の引き締まる思いをしています。
「本日はありがとうございました」
熊谷社長はわざわざエレベーターホールまで私を見送ってくださいました。そして、最後にとてもかたい握手を交わしてくださいました。
ここで、握手について少々・・・私が何度も繰り返して読んでいる名著『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(G・K・ウォード)には次のように書かれています。
「第一印象はいつの時代でも非常に重要視されるだろう。職を捜すときにはことにそうである。君が与えられるのは第一印象だけになる場合も考えられるので、その機会を充分に生かすように。人に初めて会ったときに私が特に好ましい印象を受ける、あるいは完全に興味を失う、三つの身体的な習癖がある。第一の最も大切なことは、握手が力強いか、弱よわしいかである。第二は、話をしたり聞いたりするときに、私の目を見ているか、あるいは秘書室のほうを見ているか、である。第三は姿勢の良し悪しである」
同著は、熊谷社長が読まれているということで、私も手にしたものです。経営者として、とても勉強になる内容です。おそらく、経営者としての経験を積めば積むほど味が出る本ではないでしょうか。
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その夜、大和証券の鶴見寮に戻った私は、ノートPCに電話線(当時は電話線につないでインターネットをする時代でした)をつなぎ、熊谷社長との面会時の感動を起業する仲間たちに伝えようとメールを書きました。
「今日は、あの熊谷社長の社長室に入りました。めちゃくちゃ広い社長室に、なんと秘書の方が3人もいて、部屋のど真ん中には情報収集のための雑誌が山のように積まれていて・・・熊谷社長ってかっこいいし、本当に素晴らしい経営者で・・・凄い・・・あんな風になりたい!・・・」
熊谷社長からのアドバイスも含めて、A4で3ページ分くらいにも及ぶ詳細なメールを書き上げました。
「将来、絶対に熊谷社長みたいになるぞ!」
私は、そう自分に気合を入れて、メールの送信ボタンを押しました。
ノートPCの画面の中央にはメールソフトの「送受信の進捗度」が表示されています。
「送信が完了しました」
熱い想いを込めて仲間宛に書いたメールの送信が完了したそのときです。
「宛先:熊谷正寿」
そんな表示が目に入りました。
「うん?」
「・・・」
「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
私は、目の前で起こった出来事の恐ろしさに思わず大きな叫び声をあげました。
「わっ、そうだ!今すぐ電話線を抜こう」
「ぶちっ」
混乱のあまり、慌ててノートPCの背面につないであった電話線を引っこ抜きましたが後の祭りです。そうです、私のしたためたメールは、なんと熊谷社長に送信されてしまったのです。送信が完了した後に電話線を抜いても意味がないのですが、それほどまでに慌ててしまったわけです。
「どうしよう、どうしよう。熊谷社長の事ばかり考えていたから、『アドレス帳』を検索した際に『熊谷』って検索して・・・それでメールを送信してしまったんだ(涙)」
頭の中はいろんな考えがぐるぐるまわり、心臓はバクバク。
「メールって絶対に届くものだっけ?相手に届く前に阻止できないんだっけ?・・・」
相当考えた挙句、私の結論は「秘書の方宛にメールを書こう」というものでした。
すぐに件名に「熊谷社長の秘書の方々へ」と打ち込んで、本文には「どうか、このメールをご覧になられた秘書の方は、熊谷社長に転送する前に破棄していただけますでしょうか。どうかどうかよろしくお願いいたします。あのようなメールを熊谷社長に読まれますと私は恥ずかしくて恥ずかしくて・・・」と記載しました。そして再び熊谷社長のメールアドレスに送ったのです(笑)。
その後、それらのメールには何も返信がありませんでした。熊谷社長がメールをお読みになられなかったことを祈るばかりです。私は、起業後も何度か熊谷社長とお会いしていますが、この一件の話題については触れたことがありません。都合のよいほうに受け取ることにしています♪
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2000年7月31日(月)、大和証券退職日。
この日は、とても晴れていて渋谷支店の営業フロアの窓からは、まぶしいほどに光が差し込んでいました。
そんな窓を背に、私は営業フロア(4F)に集まってくださった渋谷支店の皆様に退職の挨拶をさせていただきました。
「皆様、ちょうど一年前に渋谷支店に配属されて以来、たくさんお世話になりました。大和証券に入社し、皆様と出会えたことを本当に幸せに思っています。こうして、私は素晴らしき『ダイワライフ』を全うすることなく退職してしまうことは残念なのですが、後に立派になった私を見て『やっぱり大和証券出身者は凄いな』といっていただけるように仕事に励んでいきたいと考えております。ここで一つ、最後に決意を述べておきたいと思います・・・」
と、そのように私は述べて、改めて背筋を伸ばしました。
「それは、きちんと上場して個人資産が出来たら、皆様が投資信託の販売先のアテに困ったときに私に電話を一本頂いて、頼まれた投資信託をいくらでも買ってお助けできるようになりたいということです。ですから、ぜひとも大和証券を卒業した私のことをこれからも応援していただけますと幸いです。今日まで、誠にありがとうございました」
私がそう言い終えると、営業フロアは割れんばかりの拍手に包まれました。深々と下げた頭を上げたときに見た、皆様の優しい笑顔が今でも目の裏に焼きついています。
退社時刻を迎えるまで、渋谷支店で働く皆様から励ましや応援のメッセージを頂いたり、ネクタイといった贈り物を頂戴したりしました。こんなにみんなに愛されて、そして送り出してもらえることをうれしく感じながら、「やはり大和証券に入って本当によかった」と思える自分がそこにはありました。
「増永さん、これを・・・」
1Fの店頭の窓口の女性が、4Fの営業フロアにいた私のところまでわざわざ上がってきてくれて、抱えていた大きな花束を私に渡してくれました。
「あ、ありがとうございます。こんなに大きくて素敵な花束を・・・」
すると彼女は「違うんです」といって首を横に振りました。
「その花束は、窓口に来られた女性が増永さんにといって持ってきてくださったものなんです。とっても美人な方で、そのあまりの美しさに1Fではもちきりの話題になったくらいですよ」
私はそれを聞いて驚きました。
「そうですか、わざわざ、そのお花を私まで届けてくださり、ありがとうございました・・・」
私は、そんなことが起こるなんて全く想像もしていませんでした。
「こんなにも想ってくれている人がいる。だから私は、その想いにこたえて絶対に成功しなければならないんだ」
もはや自分ひとりの人生ではありえない・・・その花束を抱きかかえたまま、私は真剣に経営に取り組むことを誓ったのです。
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ここまでが、私が起業家となるまでの道のりです。
たくさんの人に支えられ、助けられ、そして、どうにか7年間も経営を続けてくることが出来ました。
私は、人は幸せになるために生まれてきたのだと信じています。もちろん、辛いことや悲しいこともありますが、それでも自分がしっかりとしている限り、毎日情熱を持って幸せに生きることができるはずです。
山下壽男(大和証券株式会社、尼崎支店に勤務。大和証券渋谷支店での先輩であり、よく飲みに連れて行っていただきました。そのご恩はいつか「ご馳走」でお返しします!!)
「早稲田大学の院卒と聞いて『ありえない学歴が』と思った記憶があり、同時に会社の若い人への期待感が年々強くなっていることを感じました。実際の増永は二枚目で、見た感じも頭が良さそうであった半面、古いタイプの営業マンの自分からは一緒にやっていけるか若干心配でもありました。そういえば、時代の流れもそうだったし、会社にパソコンが導入される少し前だったこともあり、増永は我が渋谷支店のITの先駆け(支店内にVAIOを普及させたあたり、ソニーの回し者か?とも)でしたね。仕事にPCを役立て、うまく顧客との接点をもち、関係を深めていき、今まで自分がやってきた営業、新規開拓とは全く違ったスタイルで仕事にうちこんでいた印象があります。チューターである佐野さんの指導もあったと思うけど、やっぱり『増永のスタイル』といった印象が強く、実際『それは営業の為だけではない』というような事を聞いた記憶があります。それを大和で役立てるか外で役立てるかは別として。だから、辞めると聞いた時もあまり驚きはありませんでした。
ところで、支店の女の子の話をしていたとき、増永はよくつきあってくれてましたね。もしかして、話しを合わせてくれてたのかな?それでもって増永は女性に対しての考えがとても真面目で純粋である印象がものすごくあります。当時好きな女性と別れたとかの話では真面目に考えてると思いましたよ。もちろんそういった所は仕事にも表れていたように思います。そして、家族に対してもそうでしたね。私が関西に来て、三上さんが後から大阪に来たとき、増永が奈良の実家に招待してくれたのを憶えていますか?家族の皆さんにはとてもよくしていただいてお母様の料理もいただいて、本当にありがとう。なによりも増永家のお父様、お母様、そして妹さんが本当に増永を愛していて、誇りに思っているのがすごく伝わりました。それに対して増永もご家族に対して同じ思いで応えていて、本当にいい家族だなって思いました。こういう家で増永は育った結果、すべてにおいて純粋な気持ちを持って、純粋に夢を追いかけることができる男になったんだなと心から思いました。最後に会ってからずいぶん経つけど、経営という厳しい仕事でかなり大人になったんだろうな。きっと増永は夢をかなえてすごい経営者になっていることでしょう。それは大きな期待も込めて。増永社長のこれからの頑張りにすごく期待しています。『こいつは俺の後輩だ』ってどんどん自慢をさせてほしい。益々のご発展を心よりお祈り申し上げます」
三上寿和(大和証券株式会社に14年勤務し、一貫してベンチャー支援とIPO支援業務に従事。現在、マスターピース・グループ株式会社の管理本部に所属。私の渋谷支店勤務時代、IPO業務を伝授してくださった先輩であり恩師)
「はじめて会ったとき、『まじめそうな奴だな』というのが第一印象です。線が細そうに見えたので証券の営業には向かないのではと感じました。ところが、一緒に働いてみて、『信念をもって行動出来る人間だな』ということがわかってきました。それゆえ、人と衝突することもあり、また誤解されやすい一面もあり、ハラハラしたことが何度かありますね。ところで、当時の渋谷支店は混沌としたところがあったものの、IPOの支援支店としての位置づけだったことで、僕からするとやりやすい環境でした。増永社長も含め、佐野や櫻井などもいて、時代の後押しはあったにせよ、大和のなかでも違った熱い支店でしたね。増永社長、ぜひもっともっと大きなことにチャレンジしてください。そして、沢山の人がライブレボリューションとのかかわりの中で、幸せを感じられるようになってほしいと思っています。これからも応援しています」
こうして、メルマガ『プレジデントビジョン』に足かけ4年以上にも渡って綴り続けてきた『起業家物語』も一つの区切りを迎えることになります。長い間、お読みいただいた皆様に心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
第一部 完
増永寛之
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