決断
高木誠司(以下、高木さん)と出会った私は、大和証券を辞めて起業するという意思を強めていました。とはいえ、独立して会社を経営していくということは、生半可な気持ちで出来るものではないことも承知していました。
もし、起業して失敗してしまうと多くの人たちに迷惑をかけてしまうかもしれません。銀行借り入れをしていた場合、億円単位の借金を抱えて自己破産ということもありえます。また、せっかく念願の大企業に就職したにもかかわらず、一年やそこらで辞めてしまうことは、両親に対しても申し訳ないと思いました。
私は、どちらかというと慎重なタイプかもしれません。何かを始める前には出来るだけ入念に準備したいという考えを持っています。そして、できるだけ前もって想定できるリスクへの対処法を見出してから実行に移します。実行に移ると速いため、傍から見ると楽観的にとらえられるかもしれませんが、それは既に私自身がリスクをカバーする方法を見出し、自信を持って事を進めているからでしょう。
当時、起業して失うものがあるとすれば、それはお金や地位や名誉ではなく、最愛の恋人であった涼子さん(仮名)でした。
実家に財産があるわけでもなく、私に貯蓄があるわけでもなく、もともとないないづくしの社会人一年目です。大和証券での実績もたいしたことはありません。しかし、涼子さんと過ごした4年半という時間はかけがえのないものでした。それらをすべて失ってしまうかもしれないと思うと、残念でならなかったのです。
一応、わかりやすく先に書いておくと、私は「起業して失敗したら失う」というのではなく、「起業に挑戦したら失う」ということを心配していました。ただそのことだけが、私が起業に躊躇する理由でした。
私自身、最終的には絶対に成功すると考えていましたが、その過程でさまざまな困難に出くわすことも前提においていました。
「うまくいっていないとき、果たして一人前の生活が出来るだろうか・・・」
お金に困ることも想定すると、涼子さんにひもじい想いをさせるわけにはいかないという気持ちが芽生えます。
私が特に心配していたのは、当時付き合っていた涼子さんを幸せにしてあげられるのかどうかです。
涼子さんと私は大学時代に出会い、すでに4年半もの間、仲良く付き合ってきました。その涼子さんは私の二つ年上で、当然ながら結婚することも意識していました。
結婚願望の強かった涼子さんは、私が大学院に進学することで2年も就職が遅れたにもかかわらず、ずっと付き合ってくれました。そして、待っていてくれました。私も、大和証券という日本を代表する金融機関の一社に勤めることができて、ようやく結婚することが出来る身分になったとほっとしていました。
ところが、私はまたもや結婚を遅らせてしまうようなことに挑もうとしていたのです。
実際、「起業する前に結婚する」ということも考えてみたことがあります。苦労もなく成功することを前提に、楽観的な見通しも立ててみました。しかし、それらには現実味が全くありませんでした。起業することにリスクがないはずもなく、最初から甘い見通ししか立てられないようでは、その時点で経営者失格だと思いました。
「起業に挑戦したら失う」
私がそれを恐れた理由は、涼子さんが「ブライダルフラワー」をがんばって勉強していたことでした。涼子さんは当時、「将来、ブライダルフラワーの世界で働きたい」と考えて、銀座の会社に勤めながらも、ブライダルフラワーのスクールに通ったりしていたのです。
休日になると涼子さんは朝4時に起きて、市場でお花を買ってからスクールに行くなど、とても努力していました。
彼女がはじめて自分の作品を出品した展示会に、私も足を運びました。
努力を積み重ねて勉強してつくったというその作品からは、その出来の素晴らしさだけでなく、涼子さんの優しい気持ちも伝わってきました。私は彼女の作品を目の当たりにして、「涼子さんにはこの世界で成功して欲しい」と強く願いました。
涼子さんが28歳になろうという頃に起業しようとしていたため、「30歳までに結婚したい」と願っていた彼女の想いに応えられません。
「起業する前に結婚すればよいのではないか」
「起業後に大変な目に会ったとしても結婚は出来る」
「涼子さんは起業してもついて来てくれるはずだ」
そういう考えも浮かびましたが、私がもっとも気にかけていたのは「結婚式を挙げられるかどうか」という点でした。
「今は、籍だけ入れる人が増えている」
確かにそうかもしれません。しかし、少なくとも私と涼子さんにとっては「結婚式を挙げる」ということがこの上もなく大切なイベントだったのです。
「一生に一度しかない結婚式の機会を涼子さんの30歳の誕生日までに・・・」
よく涼子さんは友達の結婚式に自分で作ったお花を贈っていました。それを見ていて「早く自分のためにお花を飾りたいだろうな」と思っていました。
「もし、友達にはお花を贈っているのに、自分にはその機会がなかったとしたら」
私が起業したために、経済的な理由で二人の、いえ涼子さんのための結婚式を挙げることが出来なかったとしたら、それは涼子さんを不幸にしてしまうことになります。
残念ながら、今から起業しようという人間だったにもかかわらず、私に貯蓄は一切ありませんでした。ですから、仮に起業することを前提に借金をしたとするならば、それは結婚式を挙げるためではなくて、事業資金のためにお金を使うべきです。
「起業する前に結婚式は挙げられない。そして、起業後いつになったら結婚式が挙げられるのかもわからない」
これからブライダルフラワーの世界で活躍したいと願っている彼女にとって、こんなに寂しいことはないでしょう。
「やはり起業しないことが、彼女を幸せに出来る一番の選択肢なのかもしれない・・・」
そう考えると、私は起業に踏み切る気にはなれなかったのです。
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奈良高校のバドミントン部は、毎年3月の下旬にOB会を開いています。2000年は3月19日の日曜日に開かれる予定でした。
この年はちょうど20日(月曜日)が「春分の日」ということで3連休となっていました。通常の土日では帰省しにくいですが、3連休なら帰省しやすいですし、何より起業について両親と相談したいと思っていましたので、OB会への出席も兼ねて奈良に帰りました。
OB会の前日である18日(土曜日)の夜、実家についた私は両親に起業したい旨を伝えました。とはいえ、それは突然の相談というものではなく、かなり前から起業に興味があることは伝えてありました。
「高木さんという優秀な人材にもめぐり合えました。きっと起業するチャンスなんだと思う。それに幸い、哲(さとし:一歳年下の弟)がちゃんと働いているから、僕がたとえ失敗したとしても、お父さんたちの老後は大丈夫だと思うよ」
私は、高木さんとの出会いについて話し、そして弟の話もしました。特に家族にとって重要なのは、両親の老後のことだったからです。
弟の哲は、私よりも一年早く大手ゼネコンに就職しており、そこで堅実に仕事をしていました。弟であれば、大きな失敗をすることもなく両親の老後の面倒を見ることができるでしょう。ただし、そんな弟に足りないものがあるとすれば、宝くじにでも当たらない限り、大きな経済的成功は望めないということでした。
もし、父が勤めていた会社が倒産していなければ、そんなに大きな成功を子どもたちに求める必要はなかったと思います。ところが、残念なことに、私が大学に入学した年に父が勤めていた村本建設が倒産してしまいました。それが原因で、実家のたくわえはすべて吹き飛んでしまったのです。
「哲の性格では大きなリスクはとることができません。性格的な面から見ても、そのリスクを取れるのは僕だけです。もし、お父さんたちの老後を経済的に豊かなものにできるとしたら、それは僕が起業して成功するしかないと思います。哲にはこのまま堅実にやってもらって、僕は大いなる可能性に賭けたいと思います」
そんな私の話に対して、世間でよく見られるような反論は一つもありませんでした。
「寛之がやりたいんだったらやればいいんじゃない」
おそらく、両親は私の性格をよく理解していて、「言ってもきかない」ということはよくわかっていたのでしょう。とはいえ、やはりそれだけではなくて、当時の実家の経済的苦境とその将来の打開策も考慮すれば、私が起業家として成功するしかないという状況でもあったからだと思います。
2000年3月はまだネットバブルで沸いていた時期です。新興市場が出来て、会社を設立してから一年や二年で上場でき、その結果としてたくさんの億万長者が生まれると考えられていました。
「なんの財産もない人間が短期間で億万長者になれるとしたら、それは株式公開だ」
証券会社に勤めていたこともあり、間近で億万長者が生まれる様を見ていました。
「わずか起業してから5年にも満たない人が何百億円もの資産を築いている。そんなことが現実で起こっている」
両親には電話でそういう話もしていましたので、きっと理解していたのでしょう。
「お金の集め方も、起業の仕方も、そして株式公開のやり方もわかっている。ネットビジネスについてもeプロジェクト(ビットバレーに関する書籍の出版プロジェクト)のお陰で一般人よりは詳しい」
「今起業せずして、いつ起業するのか」という焦りがあったことも否めませんが、起業するタイミングとしては絶好のチャンスに感じられました。
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翌19日(日曜日)、私は昨年も参加した奈良高校バドミントン部のOB会に出席しました。
昼間はバドミントンをするのが伝統なのですが、周りの後輩たちからは「大和証券に入社できたなんて凄いですね」とうらやましがられました。一年前には「潰れそうだから大変だね」と心配されていたのとは様変わりです。
証券市場がネットバブルで沸きかえり、証券会社は軒並み好決算を発表していたからでしょう。確かに、大和証券は完全に息を吹き返して信じられないくらいに儲かっていました。結局、一年やそこらで全く異なる見方をされるわけで、世間の評価や評判なんてものはそんなものだと思いました。
夜は、奈良高校の最寄り駅の一つである新大宮駅のそばの居酒屋「一条」で飲むことも恒例になっています。
私はその席で後輩たちに向かって、「来年ここに来たときには、大和証券を辞めて起業しているかもしれないよ」と口にしました。それは現実のこととなります。
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2000年3月20日春分の日。
その日、東京に戻る予定だった私は、両親に連れられて、国道24号線沿いにある近所のモデルルーム会場へ足を運びました。会場内には立派な家がたくさん建っています。
そのうちのいくつかに入った後、一旦会場を後にして、道を挟んで反対側にあるペットショップに入りました。
「お兄ちゃん、犬買って!犬買って!犬買って!」
まだ中学校に入学する直前だった妹は、何かにとり憑かれているかのように、犬を欲しがっていました。それはおそらく3年以上も前から続いていました。
妹は会うたびに「犬買って!」とせがむのです。両親にはそれを毎日続けていたといいます。その犬への執着心は、フジテレビ系列で毎朝放送されている「めざましテレビ」の「きょうのわんこ」のコーナーを欠かさず見続けさせるほどでした。
「ゴールデン・リトリバーが欲しい!」
お店に入ると、妹は一目散にゴールデン・リトリバーのいるところに駆けていきました。
「お兄ちゃん、家買って!」
驚いた私が妹にその理由を尋ねると、「マンションだから犬が飼えない。だから一戸建ての家を買って欲しい」ということでした。妹からしてみると、一戸建ての家というのは、単に犬を飼うために必要なもの以外の何物でもなかったようです。
私たちは再び、モデルルームの会場に戻りました。
「お父さんはこの家に住みたいなぁ」
父はしみじみとそう口にしました。
「実は、前にもここに来たんやけどな。買えんとおもっとったから諦めていたんや」
私は「いくらなん」と尋ねました。すると父は、「一億円や」と応えました。
確かに、父の力だけでは一億円もの一戸建て住宅を購入することは出来なかったでしょう。いえ、たとえ私が大和証券に勤めていて、その資金援助をしていたとしても無理だったでしょう。
ところが、目の前の父はまるで「これはいつかワシのものになるで」といわんばかりの態度でした。
父が勤めていた会社は一度倒産しており、会社更生法で復活したとはいえ、高額の給料を払えるわけではありませんでした。そうなると、父の年齢でこれから1億円の物件を購入するためのローンを組むことはできるはずもありませんでした。それは、父自身が既によくわかっていたはずです。
「これは、僕に期待しているということか・・・僕はお父さんたちの希望なんだな」
人は希望がなければ生きられません。たとえ今は貧しくとも、将来は莫大な資産を築けると思えば気持ちも明るくなります。
そんな父の姿を見て、私はこう思いました。
「親孝行をする時間は限られている」
私は、決断しました。
「起業しよう。そして、親孝行をしよう」
私は、「両親と涼子さん、どちらを選ぶか」という問いに対して「両親を選ぶ」と答えたような気分でした。
確かに涼子さんのことも大事でした。しかし、両親のことも大事でした。両親にはこれまで感謝しても仕切れないほどの恩があります。そして、縁を切ることも出来ません。さらに、両親に対する親孝行をするには時間が限られていました。
その日の夕方、私は新幹線に乗って東京に向かいました。もちろん、その道中は涼子さんのことで頭がいっぱいでした。
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