もし食べるものに困ったら
「佐野※、お前は新人に一体何をさせているんだ?!」
※(私の教育を担当するチューターで、当時のスーパー営業マン。現在、某支店の支店長を経て、大和証券本部の企画セクションに勤務)
私のチューターをしていた上司の佐野さんのところへ、他の新人を教えていたチューターたちから内線電話が何本もかかってきたそうです。
「君が変わったことをするから、僕は他のチューターたちから睨まれているよ(笑)」
大和証券に入社して一年目が終わろうとしていた3月に、私が出版に携わった『ビットバレーの躍動(仮題)』が世に出ました。そして、同著の「あとがき」には私の名前が記されていました。これが私の同期たちの間で一気に広まったのです。当然、同期たちを指導していた100名にも及ぶ他のチューターたちの耳にも私の名前が入ります。
「君のことは同期の間で相当うわさになっているみたいだな。新人を指導するチューターのための研修会に参加したときも、どうしたら君のような新人を育てられるのかを相談されたよ」
もともと佐野さん自身がトップ営業マンであり、凡人では考え付かないような行動で成績を上げていました。ですから、そんな実績を持つ佐野さんがチューターとして私にどのような指導をしているのかは、他のチューターたちの気になるところだったようです。
「佐野さん、すみません。私のせいで・・・」
「いやいや気にしなくていいよ」
私が「大和証券って寛大だな」と思ったのは、そういった出版に携わったことを咎めず、本に名前が出ることを許可し、その上、同著を100冊以上もまとめて購入してくれたことでした。
★ ★ ★ ★ ★
それまで出掛けていた「eBookプロジェクト(『ビットバレーの躍動』の出版)」が終わってしまったことで、見込み顧客である「社長」への新しい出会いの機会が減りました。それまでの私は「日経グループから出る本の取材でお会いしたい」といって有望な「社長」の方々と会っていたのです。
当時、証券営業マンだった私は、「社長」をメインターゲットとしていました。ですから、「どうすれば効率よく社長に会えるか」を考え、「本の取材であれば会えるだろう」ということで実践していました。しかし、それは本が出版されたことで続けられなくなりました。
私には次なる営業手法を編み出す必要がありました。
「毎日社長がたくさん集まっているところはないだろうか」
月に一度、何百人もの起業家や起業家予備軍が集まっていた交流パーティー『Bit Style』も終わっていたため、「見込み客」が集まっているところを一から探さなければならなくなりました。
「そういえば、お父さんが言ってたっけ」
私は、以前(当時からみて7年ほど前)父が話してくれたことを思い出しました。
「もし食べるのに困ったらスーツを着て全日空ホテル※に行きなさい」
(※東京全日空ホテルは、2007年4月1日でANAインターコンチネンタルホテル東京に名称変更されています)
父が勤めていた村本建設株式会社は1993年11月1日に戦後最大(当時)5900億円の負債を抱えて倒産しました。そのため、私の家族は経済的にも精神的にも大きなダメージを受けることになりました。
その頃の私は大学の一回生で、横浜に住んでいました。村本建設の倒産で私への仕送りはストップしました。そこで、私のことを心配した父が電話をかけてきて、食べるものに困ったときの非常手段として、全日空ホテルに行くようにというアドバイスをくれたのです。
「寛之、もし食べるのに困ったらスーツを着て全日空ホテルに行きなさい。あそこでは毎日なんらかのパーティーを開いているから。受付が終わってから30分も経てば、誰もお前が入ってきたことに気づかないだろう。スーツさえ着ていれば学生とはバレない。これで、おいしいものをたくさん食べられるぞ」
結局、食事に困って全日空ホテルに行くことはありませんでしたが、「社長との出会いの場」を探しているときに、この父の話を思い出したのです。
「そうだ!全日空ホテルのパーティーに夜な夜な潜入すればいいんだ!そこにはきっと社長がたくさん参加しているはずだ!」
全日空ホテルで開かれるパーティーならば、社長に限らず著名な方も含めてたくさんの人が参加していることは明白でした。
★ ★ ★ ★ ★
「あ、まだ受付しているのか・・・」
私は、まだ受付が終わっていないことにがっかりしました。大和証券渋谷支店を19時過ぎに出て、全日空ホテルのB1にある宴会場に着いたときには20時を回っていました。ですから、私は手っきり受付は終わっていると考えていたのです。
「このまま受付の人がいなくなるまで待っているのも時間の無駄だしなぁ」
そこで私は、クロークにカバンを預け、受付近くのトイレに入り、そこで携帯電話を取り出しました。
「よし、一度受付を済ませた人間のフリをしよう。宴会場からトイレに行って、その帰りに携帯電話で話をしている人というのを演じれば入れるに違いない」
受付係りの人が5人ほどいましたので、下手をするとそのうちの一人に呼び止められる可能性があります。しかし、私はその作戦を決行することにしました。
携帯電話を右耳に当てたままトイレを出た私は、受付の近くに来たところで電話を切った演技をして、平常心を保ちながら入り口を通過しようとしました。
「いけるかな〜、いけるかな〜」
内心、そんな呟きを繰り返しながらも、視線をまっすぐ会場の入り口に向け、落ち着いて歩を進めました。
「いけた!!」
予想通り、潜入に成功しました。
「だって、いちいち参加者の顔なんて覚えてられないよな」
中に入ってしまえばこっちのものです。
立食形式のパーティーに200名近い人たちが参加していました。
「バンバン名刺交換しよう!」
私は、50歳前後に見える男性に狙いを定め、次々と参加者に声をかけてゆきました。
「最初の出会い方に気を配りなさい」
これも父からもらったアドバイスです。
「最初の出会い方が重要だ。もし、お前が営業マンとしてお客様と出会うと、その人とは一生『営業マンとお客様』という関係で終わってしまうかもしれない。そうすると、こちらが下で相手が上の関係になる。だが、最初の出会いが『友達』としてならば対等な関係になる。だからもっといえば、最初の出会いにおいて、こちらが『先生』として出会うことを心がけなさい。そうすれば、こちらが上で相手が下という関係になる。もちろん、付き合っていく中で上下関係を変えることは可能だ。しかし、変えられないこともある。なので、人間関係を構築する上では、最初の出会い方に気を配りなさい」
証券営業マンとしてテレアポに励み、実際に見込み客と会って取引をお願いするというのが一般的な営業手法でしょう。これでは、「営業マンとお客様」という関係からスタートしてしまいます。その場合、やはりお客様は「上」になり、「先方はこちらに対してため口だけれども、こちらは相手に対して敬語で話す」という付き合い方から始まるかもしれません。そして、それがしばらく続くと、この関係を対等に持っていくのは難しくなります。
「商談をうまく進めたければ、主導権を相手に渡すな」
もちろん、「営業マンとお客様」という関係だからといってすべての主導権が相手に渡ってしまうという訳ではありません。しかし、いついかなるときでも相手との力関係に気を配っておくほうが、営業でも商売でも有利になるのです。私はそれを父から教わりました。
ちなみに、私の父は会社更生法で復活した村本建設の役員となり、長年赤字続きで最低ランクの「D」と位置づけられていた名古屋支店を任されました。すると、理系出身で土木部の部長をしていたにもかかわらず、名古屋支店をわずか一年で黒字化し、3年後には同支店を最高ランクの「A」に押し上げるという経営手腕を発揮したのです。
父はそのとき、率先して営業をしたといいます。厳しい受注競争を繰り広げる建築業界にあって大きな案件を次々と獲得していきました。私は、父のその営業手法に興味を持ち、大和証券で営業に配属されてからは、実家に帰るたびにその営業手法をいろいろと教えてもらっていました。
ですから、2000年当時の私は「営業マンとお客様」という関係から始まらないように心がけていました。たとえば、本を書くということで会った社長様とは「大和証券の営業マンである増永と見込み客である社長様」から始めるのではなく「取材に来た著者である増永と取材対象である社長様」という関係から始まっていたのです。これであれば、ほぼ対等もしくはこちらが上になる場合すらあったといえます。従いまして、その後の人間関係は少なくとも下に見られたり、ぞんざいな扱いをされるようなことはありませんでした。
パーティー会場に潜入し、そこで出会った人たちとは「友達」という関係から始まりました。また、そこで株に興味があるという人と出会った際には「先生」という関係から始まったともいえます。なぜならば、「株を買ってください」から始まるのではなく、最初から私が相手に株のことを教えてあげる立場になれたからです。
「そうですか、IT株に興味があるのですか。これからのIT株はですね・・・」
こうして名刺交換した相手に株のことを教えてあげることにより、テレアポから訪問につなげて会った場合に比べ、何倍も話が弾んでよい関係を構築することができました。
この頃の私はまだ証券営業マン一年目に過ぎませんでしたのでやりませんでしたが、もしあのまま証券営業マンを続けていたならば、株式トレーディングセミナーを開いて「講師」もしくは「先生」として、集まった株に興味のある人たちに教えていたと思います。
そうすれば、こちらが先生、参加者が生徒となり、こちらが上で相手が下という関係から始まります。このほうが、より主導権を持った形で営業が出来たでしょう。最初の出会い方を工夫することはとても大切なことなのです。
こうして私は、営業の一環として時間のあるときは全日空ホテルに行くようになりました。しかし、これに関して大和証券の人たちには誰にも言わないようにしていました。なぜならば、潜入したパーティーに同じ目的で同じ会社の人が潜入しているのはどうなのかなと思ったからです。
ある意味、同じ会社の人ほど「競合」しているわけで、せっかく自分で見つけたやり方でしたから、自分で思う存分堪能したいと思いました。
営業という仕事には工夫の余地がたくさんあります。それは営業の仕事の醍醐味でもあります。実際、営業職として成功している人たちは、さまざまなアイデアをもち、ターゲットへのアプローチ方法を工夫しています。そして、それを実践し、好成績を残しています。自分なりのやり方を見つけ、それを実践することでトップ営業マンを目指すことはとても楽しいものではないでしょうか。
私の場合、この全日空ホテルへの潜入で「社長」という肩書きが記された名刺を300枚ほど集めることが出来ました。期間にしてわずか約3ヶ月です。(その後、独立してしまいましたから)それらの人たちは、大和証券時代のお客様にもなり、また独立してからの貴重な人脈にもなったのでした。
父が「もし食べるのに困ったらスーツを着て全日空ホテルに行きなさい」と教えてくれたお陰で、おいしいものをたくさん食べながら、新規開拓営業もでき、独立後の貴重な人脈も出来たのでした。
●毎週金曜日に連載する増永寛之著『起業家物語』のバックナンバーはこちら
|