● アメリカに行かれるまでの費用は、どのように稼いだのですか。
ホテルや宅配便など、さまざまな仕事をしました。
なかには1週間ぐらいで、半べそをかいて辞めてしまった仕事もありますよ(笑)。
もうやったことのない仕事はないであろうというぐらいに数多くの仕事をして、300万円ほど貯めました。
当時は働きながらも、自分の人生がアメリカに行ってからスタートするんだ、という具合に心ここにあらずな気持ちで働いていました。
だから、仕事をしていて楽しい、そう思うことがなかったんですよ。
しかしアメリカでお客さまとコミュニケーションをとりながらお寿司を握っていると、仕事が楽しいと初めて思えるようになりました。
このときの感情は、自分のなかでも未だに記憶に残っています。
時間を忘れるぐらいに、1日があっという間に過ぎていました。
だから、家と職場の境界線もあったようでなかったようなものです。
その後予定通りに永住権を取得、さらには仕事の楽しさも得ることができました。
アメリカではいろいろとそういう貴重な経験を重ねることができました。
そして多くのことを教えられ、30歳のときに日本へ戻ってきたのです。
● 帰国後は、どのようなことをされていたのですか。
30歳を超えていたので、友人は大学に進学して企業に就職していました。
お給料も良くて、家族もいる。
私はもちろん働いてもいないし、自分の家庭もまだもっていなかった・・・どこに行っても浮いていましたね(笑)。
かといって、今から社会人としてスタートしても、周りと比べてかなり大きな後れをとっているから挽回するのは難しい。
結局、しばらくの間はなかなか動かず実家でゴロゴロしていたんです。
そんな私を見るに見かねた母から「あんた、いつまでゴロゴロしてるの、いい加減に働きなさい」と言われてしまいました。
しかも母が、町内の調理師紹介所のようなところに私を売り込んだんですよ。
「うちの息子が寿司屋をやっていたから、ぜひ使ってください」って(笑)。
言われていることももっともなことだったので、ようやく日本で仕事をすることになりました。
● アメリカのお寿司屋で働いた経験は、日本で発揮できましたか。
これがまったく違う世界だったんですよ。
日本の職人さんの板場は、アメリカとは正反対。
たとえばアメリカは割とフランクな人間関係だったのが、日本はきっちり縦社会。
横のつながりを重視していたアメリカで働き慣れていた私にとっては、抵抗もあり厳しい世界でした。
なかなかその環境が私の肌には合わず、このまま続けていくのは自分にとってどうなのか、と疑問がありました。
それにアメリカへ行っていたことで、浦島太郎のような・・・周りよりかなりの後れが感じられ、多少の焦りもあったんですよ。
経済的なレベルも上げなくてはならないですしね。
ならば自分でビジネスを展開していくのも、一つの方法だと思ったのです。
そして思いついたのがサンドウィッチショップ。
地元の岐阜でスタートしました。
● なぜそこでサンドウィッチショップを思いついたのでしょうか。
アメリカにいた頃、私自身がサンドウィッチショップをよく利用していたんです。
だから私にとっては、生活の一部になっていたんですね。
しかし日本に帰ってきてみると、ハンバーガーといったファストフードはたくさんあるけれど、サンドウィッチは今ほどあまり目立っていませんでした。
日本に帰国後、野菜の具材を選べたりできるサンドウィッチショップを思い出すと、それがだんだん新鮮に感じられたのです。
既存のサンドウィッチショップに行ってみると、店舗の数が書いてあったりするんですよね。
それを見ていると、毎回見るたびに店舗数が増えているんです。
一体なにが起こっているのか・・・当時は本当に不思議に感じました。
今思えば、これがフランチャイズシステムの凄さなのですね。
● なぜお寿司を選ばれなかったのでしょうか。
お寿司屋はすでにたくさんあったんですよ。
人がやっていることよりも、まだ誰もやっていないことのほうが社会的にもお役に立てるかなと思ったんです。
当時SUBWAYさんが日本に上陸するのと時期を同じくして、私がサンドウィッチショップをスタートしました。
偶然にも、日本サブウェイさんの社長であった藤居譲太郎さんが私のやっていることを知り、わざわざ岐阜まで見にいらっしゃったこともありました。
そのときにはお互いに情報共有をさせていただいたり、貴重な経験もしたのです。
【続く:1/8】